花天月地【第100話 水面に誓う】

七海ポルカ

第1話



長安ちょうあんに戻る?」



 暖炉の前で話していた司馬孚しばふ陸議りくぎが兄弟のように一緒に振り返って首を傾げたので、徐庶じょしょは笑ってしまった。


「はい。急ですが、郭嘉かくか殿の指示で明朝発ちます。

 大丈夫でしょうか?」


 陸議は目を瞬かせていたが、慌てて頷いた。


「は、はい。私は別に、特に帰るに当たって準備するものもないので構いません」

「そうですか。郭嘉殿も今は馬には乗らないよう軍医に言われているので、馬車を用意しました。陸議殿もそちらに乗って頂ければいいということですから、何か持ち帰るものなどあれば追って用意しますが……」


「いえ。本当に、私は自分の持ち物といえば剣だけなので」


「分かりました。司馬孚しばふ殿、今司馬懿しばい殿にも報告しましたが、貴方にも一度長安ちょうあんに戻って欲しいそうです。江陵こうりょうには私と陸議殿だけ伴って郭嘉殿は行かれますが、近いうち司馬懿殿も一度許都きょとに戻られ、曹丕そうひ殿に謁見なさるそうなので、長安で陸議殿の身の回りのことをしたのちは、許都で司馬懿殿の戻りを待つようにと」


「分かりました。それにしても本当に急に……こちらから江陵に向かわれるのかと」


「いずれにせよ、あと一月は郭嘉殿もこちらで療養しなければなりません。今回遠征軍は十分な物資がありますが、それでも都の方が落ち着いて治療も出来ますから。

 郭嘉殿も軍医を伴って長安に戻られます」


「そうですか。でも、その方がいいかもしれませんね」


 司馬孚しばふは頷いた。


「涼州はもっと雪がこれから降るそうですし。あまりに寒いと傷に障ります。

 都はここよりは温まれるでしょうから、陸議様の怪我にもいいかと。

 寝る前に兄上……司馬懿殿に挨拶をして来ます」


 司馬孚はそう言って、部屋を急ぎ足で出て行った。


 陸議は少しぼんやりした。

 司馬孚が座っていた暖炉の前に、徐庶がやって来て腰掛ける。

「どうしたの」

「あ……いえ、都に戻ることを考えていなかったので、少し途方に……」

 徐庶は笑った。

「ゆっくり過ごして、少しでも怪我を治すことだよ。

 郭嘉殿にも話を聞いたけど、そんなに時間は掛けないと言っていたからね。

 いつ江陵に発つかは彼が決めるらしいから。とにかく休めるだけ休むんだ」

「はい……」


 徐庶はいつものようにそこに寝そべった。


「戻るのは許都ではなく、長安なのですね」

「うん。そう言ってた」

「私は長安は行ったことが無くて……」

「そうか。そうだったね。君は許都にいたんだった。街も見たことが無い?」

「はい。あの……、私は……どこにいたらいいのでしょうか」


 心配そうに言った陸議に、徐庶が笑って返す。


「心配しないで。そういったことは全て手筈が整っているから。

 軍医と相談して決めていいって郭嘉殿は言っていたよ。

 彼は長安の城下に私邸を持っているから、そこに君を預かってもいいと言ってた。

 城にも彼の部屋があるし、その方が都合が良ければ、城に君の部屋を用意するよ」


「長安のお城なんて、どんなものか想像がつきません」

「君は許都の城住まいだっただろ。大した違いは無いから心配要らない」

「はい……」

「司馬懿殿がいないと不安?」


 彼ら姉弟は司馬懿が城へ連れて来たのだ。

 徐庶は尋ねたが、陸議は小さく首を横に振った。


「……徐庶さんは長安で仕事をされていたのですよね……では、街に家をお持ちなのですか?」


「うん。……あ、うんって頷いたけど他人の家の二階を間借りしてるだけだから自分の家を持ってるなんて大層なものじゃない。屋根裏部屋みたいな場所で寝るためだけに使ってる。でもいいところだよ。下は食堂だからいつ帰っても食事を出して貰えるし、戸締まりの心配もない」


「そうなんですか」


 徐庶がどんな風に長安で暮らしていたか知らなかった陸議は表情を緩めた。


「徐庶さんの家だから、なんだか静かな侘び住まいを想像していました」

 声を出して徐庶が笑っている。

「賑やかな所だよ。市中の店の二階だからね。

 長安で勤めに入った時も急に呼ばれたし……家を借りようにも俺は後見人も何も持ってないから大家が貸してくれなくて。それで途方に暮れてたら店の人が二階の物置なら好きに使っていいよって言ってくれて、格安で間借りさせて貰ってる」


 想像と全然違って、くすくすと陸議は笑ってしまった。

 

「大丈夫、君も怪我をちゃんと静かに療養しなきゃいけないのは分かってるから、落ち着いた場所を用意するよ。寝食に関しては何も心配しないでいいから。

 江陵に行くまでは、司馬孚殿に側にいてもらうし。彼がいれば、君も安心出来るはずだ」


「……ありがとうございます」


 陸議はしばらくそこで暖炉の火を見つめていたが、不意に徐庶の隣に寝転がった。

 最初は暖炉の前で寝たままになる徐庶を司馬孚と注意していたのに、最近は何となく居心地が良くて、徐庶がいると陸議も寝そべってしまうようになった。

 以前は地べたに寝転がったりしたことはなかったのになあと自分でも思うのだが、

 徐庶が特にそんなことをしてはいけないだとか、君は起きなさいとか、注意を全くしてくれない人なので陸議もそのままになってしまっている。

  

 陸議が自分を真似して寝転がるようになったのがおかしいのか、徐庶は自分の隣に陸議が寝そべると笑った。


「涼州とも、一度お別れなのですね」


 自然と、ここに来てから会ったことが脳裏に蘇った。

 他所から来た自分達を歓迎してくれた村々。

 中には焼かれた場所もある。

 陸議が強く思い出したのは、黄巖こうがんに連れられて行った庵のことだった。


「……黄巌さんに連れて行ってもらったあの庵……」


 目を閉じていた徐庶がそっと瞳を開く。


「もう一度、動けるようになったら行ってみたかったです。

 あの綺麗な夜明けを見たかった。今は、全て雪に覆われているのかな……」


「またいつか来ればいい。今度は初夏の季節にでもね。

 涼州は気持ちがいい季候だよ。俺も、もう一度夏の涼州は見に来たい」


 陸議は少し息を飲んだ。

 今……はっきりと徐庶が未来の話をした。

 

 涼州遠征が始まった頃は、徐庶の目には先を映すようなものが何も無くて、未来の話などしてくれなかった。

 庵では馬岱と、また再会しようと約束をしていたけど、その彼とも再び遠く隔たることになってしまった。


 それでも徐庶は今「またいつか」と言ってくれた。


 陸議は何故か泣きたいような気持ちになったが、今泣くのは訳が分からずおかしいと思ったので、誤魔化すように身体を折り曲げ、目を強く閉じる。


 そのうちに、自分の身体にそっと毛布が掛けられたのを感じた。



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