第五章/暗雲を裂く 5
指定された廃工場に到着した時、既に査問法院の包囲網が狭まっていた。建物の周囲に監査官たちの影がちらつく。
「時間が……」
レセナが焦燥感で自分の胸倉をつかむ。腕時計の針が、約束の時刻まで残り三分を指していた。
「あと少しで転移の時刻だ」
ロザリロンドが電磁結界を展開する。敵の接近を正確に察知するための警戒網だった。目に見えない電磁波の網が、廃工場の周囲を覆っていく。
だが、こんなあからさまに展開すれば、対施術士の専門家である査問法院にはすぐばれる。
それでも、知覚外から奇襲されるよりは遥かにマシだ。いまのレセナにとって、福音伝達者の感覚をまともに解釈できるほど思考に余裕がない。
「来るぞ」
ロザリロンドの声と同時に、レセナが物理結界を展開した。青白い光の壁が、三人を包み込む。秘蹟体系の聖なる輝きが、薄暗い工場内を照らす。
工場の外から蛇の声。
「施術士特別査問法院です。いい加減投降してはくれませんかね」
トゥクローだ。こんな状況ですら薄ら寒いほどの軽い口調だ。
「包囲は完了していますよ。想定経路はすべて押さえてありますからねえ。さすがに今回は逃がしませんよ」
監査官たちが工場に突入してくる。だが、レセナの結界に阻まれて半径十メートル以内に近づくことすらできない。監査官たちが剣を抜き、明確な殺意をもって切っ先を向けた。先端には攻撃用施術の光がすばやく展開される。
「さすがですねえ、レセナさん」
トゥクローが軽く右手を掲げながら、査問法院の集団からひとり歩き出す。
「しかしその結界、いつまで持ちますかねえ?」
本当に、トゥクローは嫌なところをついてくる。疲労は限界。本当はベッドに大の字になって寝ころびたくてたまらない。
だから、レセナは思い切り笑ってみせた。
「あなたが指を咥えてわたしたちを見ていることしかできない状況、楽しくて仕方ないからいつまでも!」
ぎりぎりの思考で、なんとか彼我の戦力差をはかる。
査問法院はトゥクローを筆頭に約二十名。こちらは疲労で限界。この距離感でまともに対峙すれば、ヴォルトの力量とて瞬殺される。ロザリロンドですら、現状の消耗具合では、対施術士の専門家を全員相手取ることは不可能だ。
つまり、レセナがいま、この瞬間の最終防衛線だ。
「トゥクロー! わたしが隠した施術、教えてあげようか?」
トゥクローの表情は変わらない。
「おおよそ推測できます。投降を」
時間稼ぎなど見え見えなのだろう。トゥクローが手のひらを下せば、査問法院に斉射される。結界は破壊され、致命傷を食らう。すべてがご破算。
「そんなこと言わないで、愉しんでいってよ!」
いまできる限界をひねり出す。範囲は半径三十メートル。秘跡体系の汎用結界外を指定。壊れそうな頭痛が生まれ、右目から涙が流れる。
神の威光が降り注いだ。神の秩序によって世界が塗りつぶされていく。
人は潜在的に神を畏れている。それゆえ、人は神を感じた瞬間、畏敬の念によって頭をたれる。それが創られし者の定めであるかのように。
トゥクローの顔に、初めて驚愕が生まれた。
「秘跡体系の《秩序》、ですがこれは……」
監査官らの剣が下がる。彼らは震えていた。足が下がり、やがて神をあおぐ信徒となって、頭をたれた。トゥクローだけが、その異様な現象に抗っていた。
「あなたたちですら行動を強制する《秩序》だよ! 今度きたらその顔ひっぱたいてやろうってずっと思ってたの!」
心底楽しそうに笑ってやる。身体が崩れそうになる。
背中に手が置かれた。身体を支える、二人の手だった。
ロザリロンドが小声で告げる。
「このまま結界を半球状に制御、前面に集中。行けるか?」
ロザリロンドのお願い。それが本当におかしくて、どうしてか嬉しくて、笑ったまま答えた。
「やるよ!」
レセナは、《秩序》を維持したまま汎用結界を前面に集める。
光が縦横無尽に走る。結界の青に反射した炭素繊維の糸が、ロザリロンドの超絶技量によって監査官らに巻き付き、縛り上げていく。
トゥクローが動く。が、寸前で足がもつれる。その隙をロザリロンドが逃すはずがない。彼の身体に糸が絡みつく。
「安心しろ。爆発はしないようにした。冤罪の貸しはこれで無しにしてやる」
その時、空間が歪み始めた。転移施術の前兆だった。青白い光が三人の足元に円陣を描き、世界が青一色に染まっていく。
《秩序》の展開を解く。いま状態で施術の多重使用はこれが限界だ。
「間に合ったか」
ロザリロンドが安堵の息を漏らす。
だが、転移の光が三人を包まんとするその瞬間、査問法院たちを飛び越える四人の影。
投擲物。
レセナの結界に見覚えのある巨大ナイフが突き刺さる。青が崩れる。
「まさか――」
レセナが驚愕の声を上げる。転移陣の内部に入り込んだのは、見覚えのある人影たちだった。
ゾルデ・クーパーと、あの美しい少年エミール。そして、ストラスト研究所で戦った双子――ジーネとニーナも一緒だった。双子の波動体系による飛行施術で突入してきたのだ。
「転移に相乗りする気?」
エミールが不敵な笑みを浮かべながら、何かの施術を発動させる。指示式を用いた座標変更の施術だった。複雑な幾何学模様が空中に描かれ、転移先を操作していく。
「さようなら。ではまたカルヴァリアで」
エミールの澄んだ声が、転移空間に響く。
四人の姿が、別の座標へと消えていく。彼らは神天院とは異なる場所へと転移していった。
残された三人は、予定通りカルヴァリアへと転移されていく。青い光の中で、レセナはいま起きた事実の致命的なひどさに肌を粟立たせた。絶対に聖都に入らせてはいけない敵を、いま侵入させてしまった。
敵はたぶん、これが狙いだったのだ。
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