第二章/夜の指先が伸びる 2
朝一番、レセナはカルヴァリアの学生街にある小洒落た喫茶店にいた。最近新しく出来た若者に人気の店だ。開店時間間もないというのに、店内の殆どがレセナと同年代の若者で、女性に根強い人気のあるニーフィア物語や、渋いツァンパッハ叙事詩について語る声が流れていた。
レセナはハーブティーの揺れる表面を眺めながら、友人たちとの会話を洒落込んでいた。
「そっか〜研究所やめちゃったんだ。確かに、研究所で働いてるときのレナってちょっと疲れてたから、良かったかもね」
レセナよりもふたつ年上のリマが、無邪気な声ながらも心配の混じった吐息をついた。研究所時代、日に日にやつれてゆくレセナを気にかけてくれていたのだ。
「でももったいないネ。王立研究所ヨ? お金がっぽがっぽだったでショ?」
チョウはセリカ民国から出稼ぎに来ている苦労人だ。商売、こと金銭に関してはがめつい性格をしていた。対して、総合菓子店セーテムに修行に出ているリマは、金銭よりも年頃のものに興味が強い。
突如目を輝かせたリマが、身を乗り出してレセナに迫る。
「レナに言い寄ってた人、結局どうしたの? 振っちゃったの?」
急に話題が変わり、レセナは記憶を掬って思い出す。少し前、二人とのお茶会の際に、同じ研究室の男性から言い寄られていたことを話したのだ。恋愛関係に疎く興味の無いレセナは、退職日に告白してきたその想いを断った。
「え、ああ、うん。そうだね。断ったよ」
「えーもったいない! すっごくできる人なんでしょ〜」
恋愛話の好きなリマは大仰に肩を竦める。思うところがあるのか、チョウは大きな瞳を潤ませていた。
「分かる、分かるネその人の気持ち。今頃枕を濡らしてるヨ。そうに違いないネ。実らない恋ほど辛いものないネ」
生まれてこの方、勉強と研究以外に時間をほとんど使ってこなかったレセナには、あまり実感できない言葉であった。年頃の感性が枯れている証拠である。
「ワタシもヴォルトがなびいてくれなくて切ないネ。レナ、そろそろちゃんと紹介してくれないカ? セリカが誇る美女がヴォルトを愛してるテ」
ああ、とレセナは遠い目をしてヴォルトを思い出す。
幼馴染のヴォルトは、軽薄そうな外見とは裏腹に努力で現在まで上り詰めた人間だ。施術士の才能が無い人間は、聖都に近づくほど住み辛い。施術士でない者を無能者と蔑む文化すら存在するから、ヴォルトは色恋沙汰へ目を向けるほど余裕がない。
「うーん、ヴォルトも大変だから、もう少し期間を置いた方がいいと思うよ」
「恋する乙女は悲しいヨ」
チョウが嘆いてテーブルに突っ伏す。
軽い会話だった。宙に浮くような会話が、いまのレセナには心地よかった。研究所時代、レセナは大人ですら舌を巻くような、小難しい施術理論を同僚達と語り合っていた。いまの会話と比べるべくもない、未来を担った研究に携わっていたから、同僚たちとの世間話ですら軽い会話など出てくる隙がない。
いま思えば、確かに疲れていたのかもしれない。自身の未来が見えない暗闇を歩いていたレセナにとって、未来を語ることは一種の劇薬だ。抜けない疲労ばかりが溜まれば、いずれ人は壊れる。研究所を辞めたのは確かに良い機会だった。
「それで、レナはこれからどうするの?」
核心を突いてきたのはリマだった。悪気などひとつも見つからない潔白の笑顔のまま、リマがレセナの今後についての話題を振ってくる。
「レナって才女だし、えり好みできそうで羨ましいな。やっぱり今度も施術関連? それとも、実は結構レナって子ども好きだし、教師とか?」
自らの歩くべき道を選んだリマの言葉は、軽いようで今のレセナには重すぎる。レセナは、自らの道程を自分の意思で決めることが許される立場にない。レセナにとっては、リマやチョウの方が自由に見えて、羨ましい。
「分からない。どうしようね、本当に」
「レナは夢ないカ? ワタシみたいに億万長者になって、いいお婿さん迎えるとカ」
顔を上げたチョウがレセナに問う。簡単すぎて、しかし難しい問題だった。
「あるけど、あったけど。無理かな。どうすればいいか分かんないや」
この国を出て、ケーキ屋でも装飾店でも何でも良い、しがらみを逃れ、ヴォルトとふたりで暮らすことがレセナの夢だ。絡みつく茨のすべてを振り払うことができるのならば、結果はどうでも良い。これが根本的に逃げの姿勢であることを知っているから、レセナはいままで口にできずにいた。
うーん、とチョウが可愛らしい声を出す。
「レナが何悩んでるか分からないネ。だけど、ワタシ、これだけは分かるネ。レナは自分が納得する道を選ぶべきヨ」
「納得する道?」
「レナ、他人のために生きてるように見えるヨ」
直球過ぎてぐうの音も出ない。レセナが今まさに直面している問題が"それ"だからだ。
レセナは、自分の進路の基準にヴォルトを置いている。最初は、ヴォルトがいる王立騎士団へ入ろうとしたが、政府によって拒絶され、仕方なくもうひとつの目的を果たすため王立研究所に入った。
十年前から、レセナは唯一の家族であるヴォルトを離れることができていない。ヴォルトが死ぬことを過度に怖れているのだ。だから、己の意思で王立騎士団に所属しているヴォルトと、何かが決定的にずれている。
声を失ったように黙り込んだレセナに、リマが優しく諭す。
「レナは、まだやりたいことが明確になってないんじゃないかな。だから理由を他人に預けてるの」
リマが続ける。
「別にそれは悪いことじゃないんだけど、理由がなくなったとき、苦しくなるのはレナだよ。だからレナは、自分が本当にやりたいことを見つけて、それを理由にして生きるのがいいんじゃないかな」
やりたいことは多分ある。目的だって決まっている。だが、何かがしっくりこない。特に、"国に睨まれる存在であることが判明した"そのときから、レセナは怯え続けているのだ。
「見つからなかったら、どうすればいい?」
「お姉さんの私が、ひとついい事を教えてあげましょう」
リマが大人びた微笑みを湛える。
不意に、先日観た舞台の台詞が頭に浮かんだ。
「思考こそが世界と対話する唯一の手段である」
レセナが先に口にすると、リマが目を丸くする。
「あれ、知ってたんだ。そう、ツァンパッハ叙事詩。思考を止めたその瞬間、人は世界に敗北する。だから我々は世界と戦い得る唯一の武器を振るい続けなければならない」
リマの声に力が込もる。
「生きる為に、生き抜く為に」
考えてみなよ、とリマが微笑む。
「色々悩むことは多いだろうけど。答えに詰まったら私たちに話してよ。三人で考えよう。そしたらきっといい答えが見つかるよ」
考えれば、本当に答えは見つかるのだろうか。頭は良くても"理由"さえ見つけることのできないレセナは、リマやチョウとは比べるべくもなく幼い子どもなのだ。
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