スチーム・シンギュラリティ

TKG

A Prizefighter’s Ride on the London & North Western Railway

1. Occupied Express

 最初に赤が滲んだのは、紅茶の中だった。

 白磁のカップの縁を越え、ぽたりと落ちた血が琥珀色こはくいろを濁らせる。

 波紋は細い皿に伝い、金の縁取りを震わせながら広がっていく。

 茶葉の香りに混じる鉄の匂い――それはもう、飲み物ではなくなっていた。



 その源は紳士ジェントルマンの喉元に穿たれたあなであった。

 背凭せもたれにもたれたまま、彼はすでに息をしていない。

 澄んだ白の襟に散った飛沫が、紅茶よりも鮮烈な赤を主張していた。

 指はなお、カップの取っ手を摘まんだまま凍りついている。



 天井の真鍮しんちゅうランプが揺れを抑え込み、車体の振動に合わせて炎を細くする。

 一等車ファースト全体は硬直した沈黙に閉ざされていた。

 将校オフィサーは肘を浮かせたまま、商人マーチャントは帳簿の頁を握り潰し、貴族夫人レディの扇は開かれたまま動かず、白い手袋にすすの黒点が沈んでいる。

 乗務員スチュワートは銀盆を提げたまま片足を踏み出し、踵だけを残して石像のように固まっていた。



 そしてその沈黙を切り裂くように、通路をひとりの男が往復する。

 頬の肉は削げ、帽子を目深にかぶり、外套がいとうの裾が擦れるたび帆布の包みが膝に当たり鈍く鳴った。

 片手は外套の内側、もう一方には短い拳銃。

 銃口は気怠げに床へ垂れながらも、その歩みは規則正しく、視線だけが獲物を漁るように座席を泳いだ。



静かにQuiet, the lot o’ ye



 低い声が落とされると同時に、空気はさらに沈んだ。

 男は連結部ギャングウェイに半身を向け、死者と生者を同じ距離に置くような角度で歩を刻む。

 床下からは蒸気の細い息が漏れ、窓の隅で煤が粉雪のように舞った。



 誰もが知っている――いま、この車両は

 ただひとり、最も目立たない隅の席で帽子を目にかぶせ、夢の残り香にまだ沈んでいる若い男を除いては。



 銃口の冷たい先端が、帽子の庇をこつ、と突いた。



「おい、お前。起きろ。そこで死にたくなけりゃな」



「……んー?」



 若い男――ウィルは帽子をずらし、片目だけ開ける。

 最奥の隅席、油を吸った帆布の上着に煤けた襟、胸元の使い込まれたゴーグル。

 ベルトの細身スパナが二本、膝には擦れ跡だらけの帽子。

 労働者ワーキング・クラス風の、場違いな一等客。



 彼は大きく伸びもせず、喉の奥で短く悪態をついた。



「……最悪の目覚ましだなThat’s a bloody rotten way t’wake a man



 片目が慣れるまでの一拍、ウィルは視界の端だけで車内を素早く点に結ぶ。

 赤いバルブ――暖房管ヒーティング・パイプ――ドア――非常引綱コミュニケーション・コード。連結部の金具、床の継ぎ目の揺れ幅、破れたランプのガラス片。

 凍りついた乗客たちの姿。血に濡れた死体。銃を徘徊させる影。



――その瞬間、列車がと理解した。



 右手の手袋をほんの半インチだけずらし、手首裏に埋め込んだ小さな圧の針を一瞥する。青域ブルーだ。

 指先でベルトのスパナの頭を軽く弾いて位置を確かめる。

 左の踵を椅子脚に触れさせ、重心の逃げ道をつくる。



「お前、格好からして蒸気機関の整備士だろ?」



 銃を持つ男が顎をしゃくる。

 視線は胸元の真鍮ゴーグルと腰のスパナへ送られる。



「ならちょうどいい。

 立て。両手を見えるところへ」



 短く命じる声。

 口の奥の母音にやわらかな癖があった。

 アイルランド人だ。



 ウィルは素直に立った。

 掌は胸の高さ、肩幅より少し広く。

 視線だけは男の額と銃口の間、ぶれを拾う帯域に据えた。



「立った。で、次は? 紅茶ティーでも淹れてこいってか」



「口を閉じろ。こっちは忙しい」



「見りゃわかる。

 ……にしても、礼儀のねぇ目覚ましだな」



 男の顎が苛立ちでわずかに上がる。

 銃口がその分だけ遅れる。



「連結部の機関を見て、蒸気圧の具合を確認しろ」



 通路の先、相棒らしい影が最後尾デッキからこちらを一瞥した。

 帆布の包みに膝を置いたまま、蒸気暖房管の赤い締切弁に指をかける。



――やはり暖房管を狙っているのか。



 ウィルは鼻で短く笑い、声量を落とす。



「わかった。だが、忠告だ。

 ここでは銃を下ろせDrop yer gun here

 もしここでそいつを暴発させたら、車内に高温の蒸気が回って、

 全員ボイルされたソーセージになっちまうWe’ll all end up like boiled bleedin’ sausages



黙れShut yer gob



 歯の隙間から飛ぶ言葉。

 だが男の足幅は、半歩だけ詰まり過ぎた。車体の揺れと歩幅がずれ、銃身が呼吸のたびに紙一枚ぶん上下する。



 ウィルはその揺れに合わせて呼吸を浅くする。

 非常引綱までの距離、二歩半。

 扉の蝶番は右。

 床板の釘が甘いのは自分の左足一枚先。

 夫人の扇が指から滑りそうに震え、将校の喉仏が上下する。

 乗務員は銀盆を胸に貼りつけ、まばたきすら惜しんでいる。



「最後にもう一度だけ言う。

 落ち着けよ、兄弟Mate



「落ち着くのはお前だ、イングランド野郎Sasanach。殺されたいのか?」(※1)



 銃口が鼻先へ寄る。

 金属の冷たさが空気を硬くする。



 ウィルは片肩を一ミリ落とし、膝をゆるめる。

 指先は開いたまま、掌の角度だけが変わる。



――間合いは、入った。





死ぬのは、お前だYou’re the poor sod who’s done for





 刹那、裏拳が音より先に走る。

 銃口を弾き上げ、鉄がいやな音で歪んだ。

 続く半歩で顎にショート。

 頭が鞭のように振れ、背が壁へ叩きつけられる。



 落ちる前に襟を掴み、みぞおちへ肘を突き刺す。折れる息。

 銃を床に落とさせ、つま先で蹴り飛ばす。

 顎へもう一撃。

 白目が剥け、膝が抜ける。

 倒れ際の頬に拳を一つだけ重ね、最後にこめかみへ掌底。

 男は糸の切れた人形のように崩れた。



 ウィルは荒い息を吐き、指の血を振り払う。



「……起こしてくれた礼だCheers for wakin’ me up

 二度寝はしねぇよAin’t gonna kip again




 その様子に通路の奥がざわりと動く。

 連結部の影から足音が駆け、外套の裾が風を切った。

 新たな男が飛び込んでくる。

 片手に布巻きの棍棒、もう片手に黒い短銃。

 目だけが獣じみて光っていた。



「おい、何してやがる、イングランド野郎Sasanach!」



 咆哮と同時に銃口が閃き、火花が走った。

 ウィルは咄嗟に崩れ落ちた男の襟を掴み、その体を盾に引き寄せる。

 乾いた連射が狭い車内に反響し、布と肉を裂く音が重なった。



 弾痕が壁に散る。

 一発、赤いバルブのすぐ脇をかすめた。

 ウィルの喉がわずかに鳴り、眉間に皺が寄る。



「……危ねぇな。だから、茹で死にするだろうが。

 アイリッシュPaddy(※2)ってのは、そんなにサウナが好きなのかよ?」



 毒を含んだ低声に、乗客の息がひとつ余計に詰まる。



 悲鳴が一斉に散った。

 夫人の扇子が床に落ち、商人は帳簿を抱え込んで縮こまる。

 真鍮ランプの炎が衝撃で揺れ、白い壁に銃煙が薄く広がった。



 一拍の静寂。

 その切れ目を逃さず、ウィルは盾の体を蹴り上げ、相手の胸へ叩きつけた。



 怯んだ男の目が泳ぐ。

 そこへ踏み込み、左ジャブを二つ、鼻梁びりょうと唇を砕き、右のショートクロスを頬へ。

 肝臓へ肘を抉り込み、抜ける息を待たずに顎へアッパー。

 最後に首筋へ掌底を一撃。

 男の瞳から光が抜け、壁へ崩れ落ちた。



 ウィルは拳を軽く振り、指先についた血を振り払った。



「……やれやれ。寝起きに鉛の雨かRain o’ lead first thing in the mornin’, eh?

 ロンドン行きのノース・ウェスタン鉄道LNWR(※3)っていうのは、随分と洒落た挨拶をするsure knows ’ow to greet a fella



 吐き捨てるように言い、床に落ちた帽子を拾い直す。

 そのままゆっくりと一等車へ戻ると、凍りついた空気が揺れた。

 夫人が震える声で「な、何が……」と漏らし、将校は腕を押さえながらも視線を逸らす。



 ウィルは片目を細め、低く問う。



「……おい、状況を教えろHey, what’s happenin’ here?

 何があった?Everythin’ all right?



 商人が喉を鳴らし、帳簿を胸に抱いたまま早口に答える。



「ア、アイルランド人ですよ、ミスター。

 先日のダブリンの工場で、若者が撃たれたとか……それで、抗議のために、この列車を……!」



我々はサクソンのくびきには屈せぬWe’ll ne’er bow to the Saxon yoke, so we won’t(※4)』



 と、乗務員が怯えた声で言葉を継いだ。



「そう叫んで……銃を突きつけ、列車を占拠したんです」



 ウィルは眉間を押さえ、短く息を吐いた。



「チッ……よりにもよって、そんな揉め事の真ん中だったのかよ。全然、気が付かなかったぜ」



 片眼の奥で、光がかすかに瞬く。

 面倒ごとだと心底思いながらも、結論はすぐだった。



「わかったよ。残りの連中も俺がまとめて片付ける。対応しないと……あとでカヴェンディッシュ卿がうるせーからな」



 低く言った声に、車内の空気がざわめきを止めた。



「……それで、残りの連中はどこに?All right, where’re the rest o’ ’em?



 乗務員が息を呑み、震える指で前方を示した。



二等車セカンドに一人……三等車サードに一人……それから、郵便車メール・コーチ……最後は機関室エンジン・ルームに」



 ウィルは片目を細め、短く頷いた。



「なるほど、ここから一直線ってわけか。手間が省けるぜ」



 帽子をかぶり直し、スパナの位置を確かめる。

 そして何事もなかったかのように、隣の車両へ歩を進めた。










※1.Sasanach(ササナック)

 アイルランド語で「サクソン人=イングランド人」を指す語。

 歴史的にイングランドの支配を受けた背景から、侮蔑的な呼称として使われることが多い。



※2.Paddy(パディ)

 アイルランド人男性に多い名前、Patrick(パトリック)に由来するアイルランド人の俗称。

 19世紀のイギリスでは、アイルランド移民に対して軽蔑的・差別的に使われることが多かった。



※3.Saxon yoke(サクソンのくびき)

 アイルランドやスコットランドなど、イングランドに支配されてきた諸地域で「イングランドの支配(サクソン人のくびき)を拒む」という意味で用いられた政治的標語。

 19世紀の独立運動でも象徴的に使われた。



※4.LNWR(ロンドン・ノースウェスタン鉄道)

 19世紀のイギリス最大級の鉄道会社で、ロンドン・マンチェスター・リバプールなど、産業革命の中核都市を結び、「世界で最も繁忙な鉄道網」と呼ばれた。

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