第29話 たったふたつの

 ざり、と焼けたパンの表面をバターナイフが撫でる。ほとんど溶けてしまったバターを広げながら、遠夜は静かに口を開く。

「その……翠さんは、何をしていたの?俺の中にあったっていう、残滓は……どうなったの?」

 主様の元に戻る、とは聞いていたが、戻って何をしていたのか。

 おそるおそる尋ねると、翠は一呼吸の間を置いてから話し始める。

「山に戻った後……主に相談した。君の中の残滓のことを」

 思わず自分の胸を見下ろす。首から下げたままの輝石が淡く光ったように見えて、そっと指で触れてみる。ひやりとした感覚。

「……全て承知しておられた。そして、……」

 言葉が途切れる。どうかしたのかと翠を見つめると、目を伏せた姿が飛び込んでくる。その目の色はいつもとは違い、どこか沈んだ暗い色をしていた。

「君の中の残滓を完全に消すためには……一度、つながりを絶つしかない、と」

 彼の沈んだ目が語る言葉は、口から紡がれるものよりも雄弁で。その決断が、翠にとってどれくらい重いものだったのかを言外に告げている。

「君に宿した主の力は、あの時の君の命を繋ぎとめた楔そのものだ。それを……無理に引き抜けば、魂が肉体から剥がれてしまうかもしれない、と」

 トレッキングの最中に道を踏み外して滑り落ちた。その時に、自分が死にかけていて、ふもとまで持たないかも知れないからと、主様の力の一部を分け与えたかたちで『助けてもらった』。

 思い出しながら、ゆっくりと頷く。マグカップを持ち上げると、珈琲を飲んだ。少し冷めかけたそれを飲みこむ音が、やけに大きく響いた気がして、肩が跳ねる。

 ──魂が、剥がれる。その言葉の意味を咀嚼するより先に、全身の血が引いていく感覚に襲われた。マグカップを持つ指先が震えてしまう。

「それって……俺、死ぬってこと……?」

 掠れた声で尋ねるのが精一杯だった。さっきまで温かかったはずの珈琲の湯気が、今はまるで不吉な靄のように見える。

 引き剥がすようにカップから指を離すと、膝の上で握り締める。

「主も、そして俺も、そんなことは望まない」

 続く言葉に耳を傾ける。今、こうして自分は生きているのだ。翠と、主様のおかげで。

「……君の魂を繋ぐ主の力は、猛毒でもあった。俺が傍にいれば、繋がりが強くなりすぎて君を蝕んでしまう」

「そっか……それで、傍にいられないって」

 あの時の翠の言葉。思い返すだけで胸の奥が苦しくなる。俯いてしまった遠夜を見て、翠は静かに席を立った。椅子に座ったままの遠夜の傍に膝をつき、震えている手を両手で包んでくれる。

 人とは違う冷えた指先。その冷たさが何よりも温かく、そして優しいものだと遠夜は知っている。

「かといって完全に離れれば、何かあっても君を守れない。……君が俺を忘れてしまわないように」

「あの、葉書……?」

 両手を包んだままの翠がうなずく。それは遠夜の手を握って、何かに祈りをささげるようにも見えた。静かに目を閉じた彼が、顔を上げないまま絞り出すように続けた。

「……君の魂が十分に慣れた今朝方、主が君から完全に力を引き上げた。それで全てが終わり、君はただの人間に戻る」

 握られたままの遠夜の手を、翠は祈るようにさらに強く握りしめた。

「だが、君の心と魂は……俺や主が思うよりも、繊細に揺らいでいた。そのせいで、『あれ』が一気に引き寄せられてしまった」

 あれ。翠がそう呼んだもの。

 名付けることさえ拒むような響きに、遠夜はぞわりと肌を粟立たせた。あの黒い腕。自分という存在を溶かし、飲み込もうとした得体の知れない『モノ』。

 もし、翠の手が間に合わなければ。今頃自分は、『モノ』の一つとして作り変えられ、遠夜としての意識は永遠に失われていたのかもしれない。

 泥の奥底に沈んでいく中、自分を掬い上げてくれた指がほんの微かに震えていることに気づいて、息が止まりそうになる。

「すまなかった、本当に。俺も主も……人の心の機微がわからなかった」

 詫びの言葉に慌てて首を振る。

「翠さんや、主様がいなかったら、俺はここでこうしていられなかった。山で助けてくれただけでなくて……あんな」

 何と言えばいいのだろう。ただ、泥、としか思いつかない。底の見えない汚泥の中へと飛び込む勇気が自分にはあるだろうか。

「……あんな、泥の中、飛び込むの、嫌だったでしょ?……なのに」

「君を失う怖さに比べれば、あの程度」

 静かにかぶりを振った翠が遠夜を見つめる。翠の目が輝きを変える。それは好奇心ではない色。遠夜も初めて見るかも知れない色合い。手を握られたまま、その深い色に吸い込まれるように視線を向けて続きを待つ。

「君に葉書を書いていたのは、さっきも言った通り……俺のことをどこかで覚えていて欲しかったから。それだけのつもりだった」

 一度言葉を区切った。祈るように包まれていた手が形を変える。掌を合わせて指を絡ませるように。指先のひとつひとつを確かめるような動きに、遠夜の指先に熱が灯る。

「だが……君に文字を綴るうち、俺自身にも理解の及ばぬ高揚に気づいた。それは小さな戸惑いと同時に、柔らかい日差しのような。まるで君の心のような波を連れて来た」

 翠の言葉が、静かな部屋に溶けていく。

「──『友達』と。そう呼んでくれた君の声を思い出すたびに。小さな波が心を揺らすことに気づいたんだ」

 遠夜、と改めて名を呼ばれる。握られた指が震える。熱などないはずの翠の指先が、あたたかく感じることに、僅かに目を見開いた。

「俺は人としても、神の僕としても、半端者かも知れない。何より、君の魂を危険に晒してしまった。それでも」

 言葉が途切れた。ただただ頭を垂れて、静かに言葉を紡ぐ。

「……それでも。君の傍にいたい」

 思考が止まる。それは、あの泥に包まれた時とは違う。

 ただ、愚直なまでの誠実さ。初めて会った時から変わらない、翠という存在そのものを真っ直ぐに向けられて、言葉も声も出てこなかった。下を向いたままの翠の髪。自分の手を握るその指先の小刻みな震えに遠夜は静かに息を吐き出した。

「翠さん」

 名を呼ぶと、彼は静かに顔を上げた。表情の浮かばないその顔が、何より、誰よりも──

「……俺、翠さんのこと、好きだよ」

 一言、一言。ゆっくりと紡ぐ。言いながら、堪え切れずに涙がこぼれてしまう。

「いつも一生懸命で、誰に対しても誠実で、不器用で……優しい翠さんが好き」

 椅子から降りて床へと。そっと指を離すと、翠の頬を両手で包んだ。

「だから……ずっと傍にいて。もう何があっても離れないで」

 お願い。

 呟いたのが先か、口付けたのが先か。小さな言葉が届いたかどうかは分からない。ただ静かに瞼を閉じる。

 自分の身体を支える腕に力が籠った。後頭部へと添えられる手の感触。頬から首へと腕を回し、顔の角度を変えていく。

 冷たいはずの唇が、熱い。 もう二度と離さない、と告げるように強く求められ、応える。


 世界からすべての音が消え、ただ互いの存在だけが確かにある。たったふたつの孤独が、ようやくひとつに溶け合った。

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