第18話 優しい音の選び方
講義が終わった午後、遠夜は翠を連れてカラオケ店に向かった。
近づく前からわずかばかり眉間に皺をよせていたが、自動ドアをくぐった瞬間、その眉間の皺は決定的なものになった。
「大丈夫?」と小声で気遣いながら、遠夜は受付カウンターで「一時間お願いします」と告げる。
店員から手渡された部屋番号のシートと、『消毒済』の袋に入ったマイクを受け取ると、足早に指定された部屋へと向かう。
「……平気?」
部屋に入ってから尋ねる。ゆっくりと頷いた後、翠は中央で店の宣伝や新曲のタイアップなどの映像を流すモニターへと視線を向けた。
「音が……」
ほとんど吐息のような呟きは、隣の部屋から壁を震わせて突き抜けてくる重低音と、廊下を駆けていく集団の甲高い笑い声にかき消された。
右の部屋からは失恋を嘆く力ないバラードが、左の部屋からは熱狂的なアイドルのコールが滲み出してくる。人ならざる鋭敏な聴覚を持つ翠にとって、この場所は濁流の川底にいるようなものなのかもしれない。
せめてこの部屋だけでも、と、テーブルの上にマイクを置き、リモコンで音量をさげた。音が和らいだことで、翠はゆっくりと息を吐き出す。
その目の色は深く濁った緑色に。かと思えば、明るい青を映し、また沈む。遠夜は備え付けのメニューを広げながら、首を傾けた。
「気になるもの、ある?」
「……気になる、というか。音が混ざって濁ってしまう」
翠は表情を動かすことが少ない。その目の色の変化が、彼の感情を表す手段だと遠夜は思っていたのだが。
はっきりと眉間に刻まれた皺と下げられた眉。
表情らしい表情を浮かべている翠をまじまじと見つめてしまう。
「全部、聞かなくてもいいんだよ?」
遠夜の言葉に翠が目を瞬かせる。
「なんていうかね、聞きたい音だけ拾うの。そうしたら、ちょっとましになるかも」
多分、翠は真面目すぎるのだと、遠夜は思った。
人の世を学ぶ、その役目に忠実であろうとするあまり、耳に飛び込む全ての音を、一つひとつ意味のある情報として処理しようとしているのではないか。
友達と騒ぐ声も、失恋を嘆く歌声も、その裏にある感情の揺らぎまで全部拾ってしまっているのなら、濁って当然だろう。
このままでは、ただ疲弊するだけになってしまう。
「聞きたい音、か」
頷きながら、遠夜は改めてメニューを開いた。
「翠さん、何か食べたり飲んだりしたい?」
彼にとって自分たちのような食事は必要はないことは知っている。だが、見た目や色など、何か興味を覚えるものがあるなら、それを頼むのも楽しみ方の一つではないだろうか。
そう思って尋ねると、翠は隣へと腰をおろしてメニューに視線を向ける。
「これは?」
「これはね、ソーダの上にアイスクリームが乗ってる」
「では、これは?」
「これはナポリタン。スパゲッティの上にハンバーグが乗ってて……おまけにポテトまで? ボリュームすごいね」
一つ一つ丁寧に説明していく遠夜自身も、いつの間にか楽しんでいた。そして、メニューの最後までたどり着いた時。
「……どれにする……」
何気なく視線を向けると、思いのほか近い距離にあった横顔に息をのむ。真剣にメニューを見つめている横顔は、遠夜の変化に気づいたのかそうでないのか。
遠夜が息を詰めて見つめていると、不意に翠の髪が揺れた。
先程、遠夜がしていたのと同じように、メニューを指さす。
「これ、とこれ」
指名されたのは、クリームソーダとフライドポテトの盛り合わせ。メニューの上で自己主張しているスマイルカットのポテトに思わず笑みが浮かんだ。だが、隣の翠は真剣そのもの。その温度差に、遠夜は胸の奥がくすぐったくなる。
「……可愛いの、選ぶんだね?」
「同じ芋を同じ調理法で食すのに。なぜ、一つ一つ違うかたちにするのか気になった。『あいす』と『そーだ』という組み合わせも」
「……そう、なんだ」
フライドポテトのかたちがどう、なんて気にしたことなかった。翠と一緒にいると、見慣れたはずの世界が、まだ知らない謎と不思議に満ちているように思えてくる。
自分の分の飲み物と一緒に、フロントへと注文。頼んだものが運ばれてくるまでの、わずかな静寂。
「遠夜」
「え、何?」
それ、と指さされたのは開封もしていないマイク。次にモニターを指さすと、今やっているキャンペーンのコマーシャルが流れる。楽し気に歌う人たちが握っているものと同じマイクへと再び視線が移動した。
「歌う時に使っているようだ」
「……使ってみたいの?」
静かな頷きが返って来る。
遠夜は表情を緩めながら、『消毒済』の袋を外す。マイクのスイッチをオンにしてから、翠に手渡した。
先程、モニターに映った人の真似をするよう、マイクを自分の口元へと持って行く。
「鉄の匂いがするな」
小さな呟きが部屋に反響して、翠の肩が跳ねた。次におそるおそる。
「あ──」
低い声。低音が丸く返る。口を閉じた翠は手にしたマイクを傾けたり、逆さに持ったりしてくるくると回している。
「お待たせしましたー!」
ばたん、と扉が開くと同時、明るい声が響く。マイクの動きが止まった。
慌ただしい動きでテーブルの上に先程頼んだ品を置いた後、
「ごゆっくりどうぞー」
来た時と同じような明るさを残して立ち去った。再び静かになる部屋。手の中のマイクをじっと見つめたまま動かない翠。
彼が今、何を思っているのか──はわからない。でも。
今は眉間に皺は刻まれていない。
「ほら、翠さんが頼んだポテト。熱い方が美味しいよ?」
笑顔を模したポテトを一つ摘まんでかじる。じんわりと広がる油と塩味。はふ、と熱を逃がしながら食べていると、マイクをテーブルへと置いた翠が、真剣な表情で細長い一本を選んで口へと運んだ。
もそもそとかじる様を見ていると、小動物を見ているように思えてくる。
「……さっき、違う形にするの、何で?って言ってたでしょ?」
静かな頷きが返って来る。笑顔で答えた後、もう一口、ポテトをかじった。
「見た目や、食感の違いとか。味そのものも。色々あると、それだけで楽しい、って。そう思うんだ」
「……俺が思う以上に。人は食事を大事にしているのだな」
自分が手にした一本を食べ終えた後。今度は違う形に指を伸ばすのを見ながら、遠夜は少しばかり目を伏せた。
「そうだね。何を食べるか、も大事だけどそれ以上に」
誰と、どこで食べるかも大事。
遠夜ももう一つ口へと運ぶ。今まで食べた中で1、2を争うほど美味しい──と感じる相手へと自然と視線が向かう。
「そういうものか。……」
さく、と一口かじる。それを飲み込んだ後、翠は遠夜の方を見つめた。
「以前。君の部屋で食べた……トースト、だったか。それの方が美味かった……と思う」
言い終わりに、翠の口の端が、ほんのわずかに持ち上がった。一瞬、色を帯びた目の色。遠夜は頬に一気に熱が集まるのを感じた。
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