第16話 名残の熱

 シーツに顔を埋めたまま、どれくらいの時間が経っただろうか。彼の残した気配が部屋に満ちている気がして、息苦しささえ覚える。ゆっくりと身体の向きを変える。

 静かな部屋の中。思い出す冷えた唇の感触。頬に触れる指の優しさ。感情を映す深い青の目。

 振り払おうと思うほど、胸の奥で翠の姿が鮮やかに浮かび上がるのに、顔を埋めた枕を噛みしめた。

「俺……何、やってんだろ」

 彼がここに来たのは主様のため。

 その愚直なまでの誠実さに、こんな劣情を抱いてしまう。強烈な自己嫌悪が襲いかかってきた。

 それでも、抑えきれない感情を自覚して、熱いものが目の端に滲む。

「……翠、さん」

 彼もこんな風に誰かを思うことがあるのだろうか。主様ではない誰かを。

 そんなことあるはずがない。でも、もし──

 ふるりと首を振ってから体を起こす。涙で濡れた枕を裏返し、シーツに潜り込んだ。

 早く残滓なんてなくなればいいのに。

 そうしたら、翠も主様のところに────

「……やだ」

 帰って欲しくない……いや、でも。

 どうしようもない想像に囚われたまま、浅い眠りの底に沈んだ。


        ◇◇◇◇◇◇◇


 翌朝、身体にまとわりつく気怠さは、寝不足のせいだけではない気がした。

 ぼんやりとした頭のまま受けた講義の内容は、右から左へと抜けていく。意識がはっきりと浮上したのは、すべてが終わったことを告げるチャイムが鳴り響いた時だった。

「……とやくん、すごい欠伸」

 いつもの学食。重たい頭を抱えながら席に着いた途端、後ろから三春の屈託のない声が降ってきた。寝不足の本当の理由など、言えるはずもない。

「……おはよ」

「今は昼だよ」

 そうだね、とうなずく目がどこか遠い。

「昨日も言ったけど。しんどいなら無理しちゃだめだよ」

 念を押されてうなずいた。三春のトレイには、おろしハンバーグが乗っている。

「今日はオムライスカレーじゃないんだ」

「俺だって毎日は食べてないよ?週4回くらい」

「それは毎日だよ」

 他愛ない会話に心が緩む。三春の明るさは、名前の通りの春の日差しのように、穏やかで柔らかい。遠夜も食事を再開した。

 ざわついた学食の喧騒も心地良い。ゆっくりと食べ進めていると、ふと耳に入る「白い髪の人」の言葉に動きが止まる。

 聞きたくないのに、耳が勝手にその後の会話を拾ってしまった。

「めっちゃイケメンの人?」

「そーそー。すっごい優しいんだって」

「マジでー?でも、あの人ちょっと人間離れしてない?誘うの勇気いるかも」

 思わず振り向きそうになって踏みとどまった。ふぅ、と大きく息を吐き出す。再びもそもそと食事を続ける遠夜を見て、三春は少しばかり眼を細めた。

「そうだ、とやくん。植物園とか興味ある?」

 食べ終わった三春が、ポケットを探りチケットを二枚、テーブルの上に置いた。

 チケットには、綺麗な花の写真と「世界の花々展」の文字。チケットが飛ばないように指で押さえたまま、三春は言葉を続ける。

「このチケットあげるからさ。翠さんと一緒に行ったら?」

「え?」

 テーブルの上に肘をつき、ぐい、と三春が身を乗り出してくる。

「伝えなきゃ、伝わらないこともあるよ」

 鼓動が跳ねる。三春はよく人を見ている。その彼の目から見て、自分はどう見えているのだろう。

「……でも、はるちゃんが買ったんじゃないの?」

 三春が行きたくて、誰かを誘うために買ったものを貰っていいのだろうか?

 それを思うと声がかすれた。不自然に逸らした視線に、三春は眉を下げる。

「うん。俺が買ったから、俺が使いたいように使うの。だからとやくんにあげるよ」

 誘いたい人を誘って。

 テーブルの上。遠夜の方へと優しい動きでチケットを滑らせた後、三春は再び笑った。

「本当に誘う人がいないなら、俺でもいいからさ」

 ごちそうさま、と手を合わせてから三春が立ち上がる。続いて遠夜も立ち上がろうとしたが、別の席からかかる声に動きを止めた。

「あ、三春ー。ちょっとこっち来てー」

「ん-、すぐいくー」

 じゃぁね、と片目を閉じた後、声をかけた他の学生と何事か話しながら歩いていく背中を見送る。

 浮かせかけた腰を下ろすと、テーブルの上に残されたチケットを眺める。印刷された花の写真は、園芸店での出来事を思い出させる。

 ほんの少しの苦さと同時に、あの時の翠の表情がよみがえる。遠夜は静かにチケットに触れた。硬質な紙の感触と指先の冷たさが重なって目を伏せた。

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