第8話 残酷なほど青く澄んで

 ゆっくりと朝食をとった後、遠夜は翠を伴って街へと出た。

 三春には今日は大学には行かない、とだけメッセージを送っておいた。

「翠さんは……心が読めたりするの?」

 並んで歩きながらの問いかけ。どこかに行こうと決めていた訳ではない。ただ、ずっと家にこもっていては気がめいりそうだったのと、人の感情の動きが「食事」だという翠のために、漠然と「人がいる場所」に行こうかな、くらい。

「……例えば、今、君が何をしたいと思っているかを読み取れるか?ということなら、それは出来ない」

 自然と肩の力が抜ける。今更ではあるが。自分の中で色々思いを巡らせていたことが逐一彼に伝わっていたとしたら──恥かしさとも怒りとも違う複雑な感情に眉を寄せる。

「ただ──今、ほっとしたのだな、という「気配」は分かる」

 びくっと肩が跳ねた。思わず自分で自分の頬に触れてしまう。

「──何といえばいいのか。あぁ──」

 足を止めた翠が空を見上げる。その視線の先には、晴れた空と太陽。薄い雲がいくつか。

「同じ「晴」の空でも、雲の数はその時々で変わるし──雲が黒ければ雨が降るかも知れない、とか」

 それと似たようなものだ。

 分かったような分からないような。そんな会話を続けながら、駅の近くにあるショッピングモールへ向かった。三春と服を買いに来た場所でもある。

 翠の容姿は相変わらず視線を集めていたが、遠夜には昨日ほど気にならなかった。案内板の前に立ち、どこへ行こうかと迷う遠夜の横に翠が並ぶ。

「これは?」

「案内板──えっと、ほらここが今、俺たちがいる場所で」

 ぴたりと指で指し示す「現在地」と書かれた場所。そのまま指を滑らせる。

「ここから、こっちに行くと、このお店があって──」

 一通り説明した後、指を離して翠を見上げる。

「目的を決めずにぶらぶらするのも楽しいけど……探し物がある時は便利でしょ」

 どこへ行きたい?

 問いかけると、翠の視線が色とりどりのロゴや店名の上を、どこにも留まることなく滑っていく。その瞳のかすかな揺らぎに、遠夜ははっとした。

──あ、そっか

 遠夜にとっては当たり前の「洋服屋」や「カフェ」の看板も、彼にとっては意味をなさない文字の羅列でしかない。そんな中で、イメージが結びつく言葉を探しているのかも知れない。

 少し意地悪な質問だったか。そう思いかけた遠夜の目の前で、翠の指がぴたり、と止まった。

「ここ」

 指し示されたのは、屋上にある「園芸店」。植物の絵が添えられた、その三文字。

「……翠さん、園芸……するの?」

 想像がつかなくて首を傾げた遠夜に返ってきたのは、いつも通りの淡々とした声。

「他に「分かる」ものがなかった」

 その言葉に、やっぱり、と納得する。

「どういうとこに行きたい、とか言ってくれたら、俺、案内するよ?」

 二人でエスカレーターに乗りながらほんの少しの罪悪感に声が弱くなる。知ってか知らずか、翠はゆっくり首を左右に振った。

「いい」

「……そっか」

 それ以上は追及せずに屋上へと向かう。平日の昼とはいえ、それなりに人がいるのは、「その道」では有名なのかもしれない。

「うわ、すご」

 店の存在は知っていたし、チラシやテレビなどで間接的に見たことはあったが、実際に訪れたのは初めてで。花だけでなく、家庭菜園向けの野菜や、ちょっと珍しい観葉植物、ガーデニング用の装飾品などなど。

 動物をかたちどった鉢と、寄せ植えのサンプルの写真やお勧めの苗の説明。肥料の説明や水やり、その他諸々、初心者の遠夜でも分かりやすいあれこれ。

 店に行こうとする遠夜より先に翠が動いた──が。

「あれ?」

 店はこっち──言いかけた動きが止まる。翠が向かっていたのは、休憩スペース。

 フードコートのような店の多様さはないが、ジュースやソフトクリームなどを販売している一角。自販機なども並んでおり、更に奥には喫煙室やトイレの案内板もある。

 屋上の休憩スペースは平日の昼らしく、人影はまばらだった。

「……」

 もしかして、自分が連れ出したことで疲れてしまったのだろうか。足を止めた翠の横に並ぶと、ちらっと視線を向けたが、その目は落ち着いた深い色。

「──疲れていないか?」

「え?」

 手近な席へと腰を下ろすように促された。先に座った遠夜を残し、翠は自販機の方へ。

 自販機の使い方──いや、そもそもお金があるのか──

 遠夜の心配をよそに、翠はペットボトルの水を手に戻ってきた。差し出されたペットボトルの冷たさに目を細める。

「ありがとう」

「ずっと喋っていたから──」

 言われてみれば。普段よりも口数が多かったかもしれない。指摘を受けて喉の渇きを覚える。

「普段、こんな時間に出歩くことってないから。ちょっと興奮したのかも」 

 冗談めかして肩を竦めた。

「でも、翠さん。自販機の使い方なんて、いつ覚えたの?それにお金」

 先程、パンの食べ方も知らなかった彼が、自販機で物を買う、という行為をいつ覚えたのか。

 そもそも、お金はどうしたのか。

 疑問の言葉をかける遠夜の隣に翠は静かに腰を下ろした。

「金銭は、主から貰っている──望めば」

 開いた掌の上。五百円玉が乗せられていた。手を握って開くと──消えている。

「……お財布とかいらないんだ」

 翠の持つ不思議な力。その一つをまた見せつけられて、遠夜は曖昧に笑う。気にしているのかいないのか、翠は淡々と次の質問に答える。

「ここに来るまでに。いくつか見かけた」

 あれ、と指で指し示す自販機。

「そこで、「買い物」をしている人を見たから」

 それで覚えた。

 こともなげに告げられる言葉に目を瞬かせる。遠夜は翠のことばかり見ていて、周りなど気にもしていなかったのに。

「翠さんは──周りをよく見ているんだね」

 その顔つきは凪いだ水面のようで、どんな感情も映してはくれなかった。

 ペットボトルを開けようとして、動きを止める。

「翠さん」

 改まっての言葉に彼の目が自分の方を向いた。小さく頭を下げてから、ペットボトルを見せる。

「ありがとう、いただきます」

 どうぞ、と視線で促した後は、また彼は園芸店の方へと顔を向けてしまった。遠夜もペットボトルを開けて水を飲む。冷えた水が喉を流れていく──その感触で、昨日の出来事を思い出してしまう。

 頬が熱くなるのを感じながら、ちらっと視線を横へ。その横顔が何を思い、考えているのか──探るように見つめても、静かな瞳は休憩所の蛍光灯を映すばかりで、その奥の色までは見せてくれない。

「ね、翠さん」

「なんだ?」

「………主様のこととか、聞いてもいい?」

 ざわ、と目の色が揺らいだ。真っすぐに向けられる視線の純粋さに目を逸らしてしまいそうになるが、何とか堪えた。

「──何が聞きたい?」

 声の調子はいつも通り。ざわついた目の色も落ち着いている。遠夜はもう一口水を飲んだ。

「水たまり、って言ってたでしょ?自分のこと」

 はっきりとは覚えてはいないのだが。──主様の傍にある水たまり。確かそんな風に自分のことを言っていた気がする。

「どういう生活……してたのかなって」

 昨晩の出来事があったとはいえ。水が人の形になって、自分の傍にいる──どうしても現実感が持てずにいる。

「──願いを拾い、季節を告げ、迷い子に水を飲ませて……今はここにいる」

 ふ、と口元が緩んだように見える。

「雨の巡りや、川の流れ、人のこぼした願いが混ざる。そういったものが、主様のもとに集められ、形を成す。そんな数多の雫の一つが俺だ」

「…………」

 ご神体だと言われていたあの滝。歴史は長く、何百年も前から祭られていた──なんて話を、野菜を持って行った時に聞いた記憶がよみがえる。

 今でこそ、参拝する人も減りつつある、さびれた神社ではあるが、長い年月、そこには喜びも悲しみもあったのだろう。

「我が子が無事に生まれたと、涙を流して感謝する男。恋が成就したと、花が咲くように笑う女。己の欲のために家族を贄とし、財を欲する者。未来永劫の怨嗟を吐き零して、果てた者。それらすべてが主様の力であり──俺でもある」

 沈黙が流れる。喜びも悲しみも。恨みや憎しみ、無念──そういった、様々なものが混ざり、翠というかたちになった。

 淡々と語る彼の声や口調からは何も感じられない。だが──その目の色は。淡くなり、また深く沈む。言葉にはしないながらも、彼の中では確かに「何か」になっているのだ、と遠夜は思う。

「じゃぁ──翠さん以外にも、そういう「かたち」になる人はいるの?」

「昔は、たくさんいた。俺は──赤子のような存在だった」

 ──翠が赤ちゃん……?

 どれくらいの月日を重ねれば、彼を赤子扱い出来るのか。助けてもらってばかりの遠夜には想像がつかなくて目を瞬かせる。

「……だが今は、主様の力が弱り、滝の傍を離れれば、思いは霧になってほどけていく。形を持てる者は、もう──俺だけだ」

 誰に語るでもないその言葉に、ほんの一瞬、翠の影が揺れた気がした。ショッピングモールの休憩所で交わされるには、あまりに重い。

「えっと。じゃあ──」

 聞こうと思った言葉が喉につかえる。続きを促すような視線に目を伏せた。

「──主様は、なんで俺を助けたの?」

 力が弱っているなら。自分を助けるより、翠のような眷属を助ける方がいいのではないだろうか。

 翠は遠夜を見つめたまま、ゆっくりと目を伏せた。

「言っただろう。感情の動きが糧になると」


 一度息を深く吸い込んで吐き出した。開かれた目の色は鮮やかな──残酷なほどに澄んだ色。


「君の傍で、今の人の世を学び、その思いを持ち帰る。だから、君を助けた」


 遠夜はその目が初めて綺麗だと思った。同時に、告げられた言葉に返事も出来ず、ただじっと見つめるだけだった。

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