第6話 名前のない熱

 シャワーを終え、タオルで髪を拭きながらベッドに滑り込む。

 寝る時にスマホを見ながら、という人も多いが、遠夜はスマホがあると眠れない。つい見てしまう──ではなく、何となく落ち着かないのだ。

 代わり──と言うわけではないが、翠から貰った輝石を手にする。

 三春が革紐を器用に編んで、石を傷つけることなくネックレスのかたちで持ち歩けるようにしてくれたのだが、寝ている間に絡まっても──と首にかけることはやめて、枕元の棚へ。

「……明日、ちゃんと謝ろう」

 ごめんなさい。

 心の中で思うと同時、石が輝いたように見えて目を瞬かせる。見間違いかもしれない。でも、少しだけ気持ちが軽くなったような気がして、遠夜は静かに目を閉じた。


        ◇◇◇◇◇◇◇


 深夜。

 ふと目を開いた遠夜はそのまま動けなくなる。


 ──重い。


 腹の上に、何かがいた。そこだけ重力が歪んだように軋む。シーツに、闇よりもなお濃い染みがじわりと広がっていた。

 輪郭はない。ただ、その染みの中心が、ゆっくりとこちらへ粘つく注視を向けてくるのがわかった。

 動けない。

 押さえつけられているわけじゃない。けれど、異様な圧迫感。

「…………!、……!!」

 声にならない悲鳴が、肺に詰まる。


 喉がざらつく。何かが、奥へ侵入してくるような錯覚。呼吸ができない。叫びたくても、声が出せない。

 怖い、とか、気持ち悪い、とか感じる余裕もなかった。ただ、理解が追いつかず、頭の中は煮立ったように熱いのに、指先から急速に温度が失われていく。

 黒いそれが、じわり、と動いた。粘つく闇が胸元から首筋をなぞるように滑っていく。まるで墨を垂らした水の中にゆっくり沈められていくような感覚。


「──っ……!」


 意識の中で悲鳴を上げた刹那、身体が急に自由になって、呼吸が戻ってきた。力んでいた手足がばたつき、ベッドが大きく音を立てる。

 先程まで自分の上にいた黒い影の中心。貫通する白い指と手首に光るアクセサリーは──

「翠……さん……?」

 何で、と問いかけるよりも先に。未練を訴えるように絡みついていた黒い影が霧散していく。

 影を断った白い手がそのまま肩を支え、遠夜を抱き起こした。

 真剣な表情の翠は、遠夜をじ、と見詰めた後、後頭部へと手を添える。

「……中に──」

 小さく呟いた次の瞬間──

「え──」

 戸惑う間もなく──唇が塞がれた。

 柔らかい感触。ひやりとしたそれは、助けてもらった時の手を思い出す──肩が跳ねた後によぎったのは、嫌悪感ではなく、安心感。

 その次に──純粋な疑問。


──なに……?


 呆然と翠を見返す。問いかけようにも口づけられたままでは何も言えない。

 やがてゆっくりと唇が離れた。翠の指先が、頬を伝ってそっと離れる。

「あ、あの……俺……」

 声が上ずる。状況が分からず、何を言えばいいのかも分からない。言葉にならない声を繰り返す遠夜の背に、そっと手が添えられた。

 自分の胸へと遠夜の身体をもたれかけさせるように。服越しの冷たい気配が、胸の鼓動を静めていく。

「……今は眠れ」

 その声を聞いた瞬間、急激な眠気に襲われる。限界だった精神は、そのまま深い眠りに落ちていった。


        ◇◇◇◇◇◇◇


 瞼越しに感じる朝日に遠夜はゆっくりと目を開く。ぼんやりとした視界の中で、まず感じたのは、ひやりとした感触。

「起きたか」

 頭の上から声がして、びく、と身体が跳ねた。

 視線を上げると、翠の姿。──自分は、翠の胸にもたれたまま眠っていたらしい。

「あれ……──……ぁ」

 何故?と思うと同時。昨晩の出来事が一気に蘇って体が震えた。

 あの黒い影。音のない水の中へと沈められていくような感覚を思い出し、自然と自分の身体を抱くように腕を回す。

「……あれ、あの……夕方の──?」

 肯定されて目を伏せた。

「なんで、俺の部屋──」

 小さく震える背中に静かに翠の手が添えられる。静かに身体を寄せる動きに逆らわず、翠の胸へと身体を預けた。

「俺が思うより……主の残滓は強力だったようだ」

 翠の視線が、遠夜の胸のあたりに注がれる。まるで、服の下にある何かを見透かすように。昨夜、黒い影が這いずり回った場所だ。

 ぞわり、と肌が粟立つ。あの影は、自分の中に残る何かを求めていたのだと、直感した。

「突然に姿を出すな、と言われてはいたが。あの場では許可を得る余裕がなかった」

 翠の真面目な性格は遠夜が思う以上のようだ。愚直に頭を下げられて、慌てて首を左右に振った。

「とんでもないです。翠さんがいなかったら、俺……」

 あのまま「食べられていた」かもしれない。改めて礼を述べた後、質問を続ける。

「あの、考えたくないけど、もし、「あれ」が、中に入って残滓?を食べたら?どうなるんですか?」

「……」

 やや間をおいて。翠は静かに語り始めた。

 影の力が、主の残滓よりも弱ければ、影は消滅。遠夜も数日体調を崩す程度で済むだろう。が──もし、残滓の力を取り込んで、自分自身を強化出来る程に力を持った影だとしたら。

「君が君でなくなるかもしれない」

 いつもの淡々とした口調で告げられる言葉を受け入れるのに時間がかかった。暫くの沈黙の後、ようやく絞り出した言葉。

「……そんなの、俺……嫌です」

 ぽつりと零れた一言は、細く弱い。自分で対処できないことにこれからずっと、怯えて生きて行かなければならないのだろうか。

「そのために俺がいる」

 遠夜の背中に添えられた手に力がこもった。静かに顔を上げると、真っ直ぐに自分を見る目と視線が重なる。

「あの石がある限り。俺は君の傍にいられる──だから、大丈夫」

「でも──」

 考えたくはないが。もし、あの黒い影が翠よりも強く、頭の切れる存在であったら。自分をだまして、翠から離れさせるような策を弄されたら、自分は見破れる自信などない。

「万が一、石が君から離れても──君の中に俺の一部がある間は何とか」

「へ?」

 そこでようやく思い出す。昨日、何をしたのか──

「え、あ、あ……」

 頬が一気に熱くなる。狭いベッドの上、後ろへ下がると落ちそうになって、慌てて姿勢を整えた。

「応急処置ではあるが。俺の水は──主様の傍で磨かれたものだ。一種の魔除けにもなるし……何より。君の中にあるから見失うこともない」

 そうではなくて。

「これなら、少しは心が休まるだろうか?」

 だから、そうではない。

 翠の視線が痛い。純粋過ぎる程の気遣いに遠夜は言葉を飲み込んだ。

「えっと、あの……その、魔除けは、残滓が消えるまで続くんですか?」

 翠は静かに首を横に振った。

「もって一週間。無論、それまでに残滓が消えれば、問題はないが──」

 遠夜の頬がまた熱くなる。

「それって、また……えっと、」

「また口付ける必要がある」

 視線をそらしてしまう。鼓動がうるさい。ちらっと視線を向ければ、翠は顔色一つ変えていない。

 彼にとっては、この行為は「主様」の命令を遂行するための手段の一つでしかないのだろうか。

 遠夜はようやく顔を上げると、どこか気まずそうに視線をそらしながら訊ねた。

「……、…………その……キス、って……」

 翠は一瞬だけ目を伏せ、静かに言った。

「理解している。“口吸い”──すなわち口づけは、人間にとっては特別な意味を持つ行為だと。恋人や、特別な関係の者にのみ許される、と」

「じゃあ……なんで、その──平気そう、っていうか……えっと、嫌──じゃないんですか?」

 翠の目が軽く見開かれた。穏やかだった目の色が一瞬ざわつき、また静かに沈んでいく。

「俺にとっては、手軽で、迅速、かつ確実に「水」を送り込める手段だ」

 だが、と目を伏せる。 

「君にとって“苦痛”でないか、とは思わなくもない」

 翠は少しだけ言葉を選ぶように間を置いて、続ける。

「──君に恋人がいるなら、この行為は耐え難いだろう。であれば、できるだけ早く“主の残滓”を消せる他の手段を探してみる」

「……え?」

 思わず、間抜けな声が出た。

「いや、別に、恋人とかいないし……っ! そんな、気まずいとかじゃ、ないですけど……!」

 咄嗟に否定した遠夜自身が、自分の反応に戸惑う。

「そうか。なら良かった」

「……良くは、ないです、けど──」

 そんな問答無用で定期的にキスをしなければならない、なんて──これは嫌なのか、それとも──ただ、胸の奥がひどくざわつくのだけは、確かだった。そっと翠の表情を伺う。

「俺への気遣いなら無用だ。君が嫌なら、嫌だと告げてくれて構わない」 

 翠から視線を外し、意味もなく自分の指先を見つめてしまう。彼の言葉を、どこで拾って、どう返せばいいのか分からない。そんな思考の最中、ふいに頬にひやりとした感触が走った。

「いずれにしても」

 いたわるような手つきに肩の力が抜ける。火照った肌に翠の冷たい指先は心地良い。

「君が安心して生活できるように努めるのが、俺の役目だ」

 その言葉はどこまでも真面目で、どこまでも誠実で。遠夜は自然と姿勢を正していた。

「…………え、と。じゃあ、その。残滓が消えるまで、よろしくお願いします」

 嫌じゃない。でも、嬉しいかと問われると、即座には頷けない。心臓のあたりが、まるで冷たい水にインクを一滴落とされたように、じわりと不確かな色に染まっていく。

 それが何なのか、まだ遠夜には分からなかった。

「こちらこそ」

 ほんの僅か。口元が緩んだように見えて、遠夜は目を瞬かせた。

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