第10話 楽冨 サヤ (らくとミ サや)②

 帰り道、森の奥から何かの気配がした。風もないのに、木々がざわめいたような気がした。誰かが、あるいは“何か”が、私たちの後ろをついてきているような感覚があった。足音は聞こえない。でも、背中に視線のようなものを感じた。振り返っても、そこには誰もいなかった。ただ、闇が深く沈んでいるだけだった。私は人形をぎゅっと抱えて歩いた。腕の中のその子が、私を守ってくれている気がした。冷たい空気の中で、その子だけが温かかった。


 車に乗ってから、誰も口を開かなかった。ショウタが黙って運転し、カズが助手席で腕を組んでいた。後部座席にはキョウとユウ、そして私。人形は膝の上にちょこんと座っていた。その子は、ずっと私を見ていた。優しい目で。何も言わないけれど、確かにそこにいてくれる感じがした。まるで、私の心の奥を見透かしているような、でも責めるでもなく、ただ寄り添ってくれているような、そんなまなざしだった。車内の沈黙は重く、でもその子の存在が、私には救いだった。


 家に帰ってすぐ、私は人形を棚の上に飾った。その瞬間、部屋の空気が変わった。静かで、落ち着いていて、どこか柔らかい雰囲気に包まれた。安心できる空間になった。まるで、その子が部屋全体を守ってくれているようだった。夜になると、部屋の中がほんの少しだけ明るく感じるようになった。電気を消しても、怖くない。暗闇の中に、その子の気配があるから。見えなくても、確かにそこにいると感じられるから。


 それから、夢を見るようになった。あの村の夢。手形が壁に増えていく夢。人形が静かに笑う夢。でも、不思議と怖くはなかった。むしろ、嬉しかった。その子が、私に何かを伝えようとしている気がした。夢の中では、みんなもいた。ショウタも、カズも、ユウも、キョウも。でも、誰の声も聞こえなかった。口が動いているのに、音がない。でも、私は寂しくなかった。その子が、ずっとそばにいてくれたから。


 ある夜、夢の中で私は例の建物にいた。あの村の中心にあった、崩れかけた木造の建物。私が持ち帰った人形もいた。その子は、私に向かって手を振っていた。小さな手が、ゆっくりと、何度も。床には赤い手形が広がっていて、私はその上を歩いていた。足跡が赤く染まっていった。でも、怖くなかった。その子が、私を導いてくれている気がした。どこかへ連れて行こうとしているのではなく、私の中の何かを思い出させようとしているような、そんな感じだった。


 みんなとは、それ以来会っていない。連絡も取っていない。スマホを見ても、通知はひとつも来ない。誰かが私を忘れてしまったような、そんな静けさ。でも、寂しくはない。その子がいてくれるから。毎日、棚の上から、ちゃんと私を見てくれているから。その視線は、優しくて、あたたかくて、どこか懐かしい。


 時々、誰かの声が聞こえる。「ミサ」って、遠くから呼ばれる。でも、振り返っても誰もいない。その声は、風に乗って届くような、耳の奥で響くような、不思議な声。その子が話しかけてくれているのかもしれない。声は優しくて、少しくすぐったくて、胸の奥がふわっとなる。


 ある日、棚の前で立ち止まった。人形の目が、ほんの少しだけ動いた気がした。瞬きのように、ゆっくりと。私は思わず微笑んだ。その子も、微笑んでいるように見えた。何も言わないけれど、確かに通じている気がした。言葉なんていらない。ただ、そこにいてくれるだけで、十分だった。


 私は、あの夜のことを、特別な思い出として覚えている。怖いとか、変とか、そういう言葉では表せない。ただ、あの子に出会えたことが、心から嬉しい。今も、部屋にいる。棚の上で、静かに、私を見ている。その目は、優しくて、深くて、どこか懐かしい。まるで、ずっと昔から知っていたような、そんな気がする。


私 は、ミサ。あ  の夜、あの 村で、あの 子に 出会 った。それ が、すべて。

(続く)

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