神喰いさまの契約花嫁 ―桃色吐息に秘めた恋―

たかつど

第1話  没落の影

 朝靄を裂くのは、荒々しい男の声だった。


「松下の旦那、今月の利息はどうなさるおつもりで?」


 玄関先に正座する花蓮の視界には、二人の影が威圧的に立ちはだかっている。ひとりは大きな腹を揺らし、もうひとりは蛇のような眼でこちらを睨む。冷たい空気よりもなお冷ややかな視線に、花蓮(かれん)の肩は小刻みに震えた。


 太った男の声は、静寂な朝の空気を切り裂くようやに響いた。花蓮は深く頭を下げ、畳に額をつけるほどに身を低くする。


「申し訳ございません。父の薬代がかさみまして……あと三日、いえ、二日お待ちいただけませんでしょうか」


「また同じ言い訳か。もう何度目だ?」


 隣の男が舌打ちをした。花蓮の肩が小刻みに震える。着物の袖口は擦り切れ、膝をついた部分は薄汚れていた。かつて名のある旗本だった松下家の面影は、もうどこにも残っていない。


「お嬢さん、あんたがた、いい加減現実を見なさい。この家も土地も、全部差し押さえになるんだ」


「お願いします」花蓮の声は震えていた。

「父はもう長くありません。せめて、せめて最期まで……この家で」


 男たちは冷笑を浮かべた。一人が懐から紙切れを取り出し、花蓮の前に放り投げる。


「来週までに全額返済。できなければ、本当に追い出すからな」


 足音が遠ざかり、花蓮はようやく顔を上げた。頬には屈辱の涙が光っている。


 借金取りが去った後、花蓮は奥の部屋へと足を向けた。薄暗い六畳間に、父・松下康政(まつしたやすまさ)が横たわっている。一度は藩の重臣として名を馳せた男も、今では骨と皮ばかりに痩せ細っていた。


「花蓮……」


 弱々しい声が、花蓮の胸を締め付ける。彼女は父のそばに膝をつき、やつれた手を両手で包んだ。


「お父様、起きていらしたのですね」


「さっきの話、聞こえていた。すまない、花蓮……こんな親で」


「そのようなことを仰らないでください」


花蓮は笑顔を作ろうとしたが、うまくいかない。


「お薬が効いて、きっと良くなります」


 康政は首を横に振った。自分の病状を一番よく理解しているのは、彼自身だった。


「わしが死ねば、借金も相続放棄できる。おまえは自由になれるのだ」


「お父様!」


 花蓮の声が震えた。康政の手は、娘の頬にそっと触れる。


「母上が生きていれば……おまえをこんな目に遭わせることはなかった」


「お母様のことは……」花蓮は言葉を飲み込んだ。母・雅江が亡くなってから、この家の運命は坂道を転がり落ちるように悪化の一途を辿っていた。


「花蓮、おまえだけでも幸せになってくれ。わしのことは気にせず……」


「そんなこと、できるわけありません」


 花蓮は父の手を握り締めた。薬代を工面するために、彼女はありとあらゆる手段を尽くしていた。着物を売り、母の形見の簪を手放し、それでもまだ足りない。


 窓の外から、鳥のさえずりが聞こえてくる。のどかな音色が、二人の置かれた厳しい現実と対照的だった。


 父が眠りについた後、花蓮は庭に出た。荒れ果てた庭の片隅に、一本だけ桃色の花を咲かせる木がある。桃色吐息──母が愛した花だった。


「お母様……」


 花蓮は花に向かって小さくつぶやいた。母・雅江は花を愛し、特にこの桃色吐息を大切にしていた。『あなたと一緒なら心が安らぐ』──そんな花言葉を持つこの花を、母はいつも優しく見つめていた。


 今では他の花はすべて枯れ、庭は雑草に覆われている。それでもこの桃色吐息ももいろといきだけは、母の愛情を覚えているかのように、毎年美しい花を咲かせていた。


 風が吹いて、花びらが一枚舞い散る。花蓮はそれを手のひらで受け止めた。柔らかな桃色が、朝の光に透けて見える。


「お母様、私、どうしたらよいのでしょう」


 誰も答えてくれない問いかけが、静寂な庭に響いた。母がいれば、きっと優しく抱きしめて、すべてを解決してくれたのに。今の花蓮には、頼れる人も、相談できる相手もいない。


 桃色吐息の花を見上げながら、花蓮は母の面影を重ねた。温かな微笑み、優しい手、すべてを包み込むような愛情。それらはもう、記憶の中にしか存在しない。


 花びらをそっと胸に当て、花蓮は目を閉じた。母の温もりを思い出そうとするが、月日と共にその記憶も薄れていく。


 午後、花蓮は最後の望みをかけて親戚の家を訪ねた。母方の叔母・園子の屋敷は、松下家とは対照的に立派で、庭も手入れが行き届いている。


「まあ、花蓮ちゃん。久しぶりねえ」


 園子の声には、表面的な親しみしか感じられない。花蓮は玄関先で深く頭を下げた。


「叔母様、お忙しい中恐れ入ります」


「で、今日は何の用? まさかまたお金の話じゃないでしょうね」


 園子の声が急に冷たくなった。花蓮の頬が熱くなる。


「父の薬代が……どうしても工面できませんで」


「あら、また? この前も同じことを言ってたけど、あれからまだ半月も経ってないのよ?」


 花蓮は言葉に詰まった。園子は扇子をぱちんと閉じる。


「花蓮ちゃん、いい加減現実を見なさい。康政さんの病気はもう……それに、うちだって余裕があるわけじゃないのよ」


「叔母様……」


「それに、松下家がこうなったのは、康政さんの放蕩のせいでしょう? 私たちがなぜ尻拭いをしなければならないの」


 園子の言葉は容赦なかった。確かに父は酒に溺れた時期があった。母を亡くした悲しみから立ち直れずにいた頃のことだ。しかし、それがすべての原因ではない。時代の変化に取り残され、新しい世の中に適応できなかった──それが松下家没落の真の理由だった。


「お帰りなさい、花蓮ちゃん。もう来ないでちょうだい」


 扉が音を立てて閉まった。花蓮は一人、屋敷の門前に立ち尽くしていた。


 夜が更けた。父は薬が効いて眠っており、家の中は静寂に包まれている。花蓮は暗いろうそくの灯りの下で、家計簿と向き合っていた。


 収入はほとんどない。わずかな内職の収入では、父の薬代にも満たない。支出は増える一方で、借金の利息だけでも首が回らない状況だ。


「どうしよう……」


 花蓮は数字を見つめながらつぶやいた。どう計算しても、答えは絶望的だった。このままでは来週にも家を追い出され、父は路頭に迷うことになる。


 親戚は冷たく、友人たちも松下家の没落と共に離れていった。頼れる人は誰もいない。


 ふと、花蓮は母の言葉を思い出した。『困った時は、神様にお願いしなさい』──そんなことを言っていた記憶がある。


「神様……」


 花蓮は天を仰いだ。もう人間には頼れない。残された選択肢は、もはや神頼みしかない。


 町外れにある古い祠のことが頭をよぎった。昔から語り継がれる、神喰いの祠。恐ろしい言い伝えがあるその場所に、本当に神がいるのだろうか。


「お母様、お許しください」


 花蓮は母の遺影に向かって手を合わせた。正道を外れることになるかもしれない。それでも、父を救うためなら──。


 ろうそくの火が揺らめき、花蓮の決意を照らしていた。明日の夜、彼女は祠へ向かうことを心に決めた。たとえそこにどんな恐ろしい神がいようとも、もう後戻りはできない。


 絶望の淵に立たされた少女の運命が、今、大きく動き始めようとしていた。

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