第8話 港炎上、潮路は線で引け
港の朝は、魚の匂いで目が覚めるはずだった。
その日だけは違った。煤と樟脳、焦げたロープ、油の甘い臭い。鐘が三つ、四つ、数え切れないほど重なって鳴り、海鳥が黒い点になって外海へ逃げていく。
「黒帆だ――!」
見張り塔の若者の叫びに、埠頭じゅうの顔が上を向く。外海の霧の縁、墨を塗ったような帆が、一本、二本……十、二十。艫灯の並びが歪んでいる。商船の列ではない。武装商船団(アームド・フリート)。港湾同盟の旗が黒に反転して掲げられていた。
俺は桟橋の端で立ち止まり、掌を空へ向ける。薄く残っていた**世界規格図(ワールド・スタンダード)**の層が、潮風の中でわずかにざわめいた。
「【解析(アナライズ)】――喫水、横帆角、舵応答。
【街路録(ストリート・レコード)】――市声収束(シビック・コーラス)」
石畳が朝いちばんの声を返す。魚市場の女将の嘆息、船大工の舌打ち、孤児の短い笑い、商人ギルドの乾いた命令。
合唱は一つに縮む――「港を守れ。血を流す前に」。
リナが横で杖を握り直す。栗色の髪に潮が光った。「来ます。第一列、火矢の準備みたい」
「こっちは“線”で先に準備する」
「ガハハ、火消しと殴り合いは任せろ!」
背後で大斧が笑い、ガロム・ブレイザーが樽の蓋を蹴飛ばして踏み台にする。「おい! 水樽はあっちにまとめろ! 帆布は濡らせ! 冒険者は私兵じゃねぇ、港の仕事を守るぞ!」
号令は、金の匂いより早く広がった。
──
前哨:火の雨、港は仕事場だ
黒帆の先頭から、線香花火のように光点が弾け、次の瞬間には赤が空に咲いた。火矢。
蜂の群れみたいに唸りながら、倉庫の屋根、ロープの山、干し網へ突き刺さる。
「【改造(リフォージ)】――空気層屈折率操作(レフラクト・バンド)!」
埠頭上空に透明な帯を三本、斜めに架ける。火矢は帯で角度を変え、海面へ弾かれ、白い蒸気が上がった。
逸れた数本が倉庫の縁に刺さる。女将が濡れ帆布で叩き、孤児たちがバケツをリレーする。「線の内なら大丈夫!」と誰かが叫ぶ。
俺はうなずき、次の帯を低い角度に落とした。
「【同調(シンク)】――弓師の記憶を借用、張力補正」
港側の臨時弓隊の弦を“見えない手”で一斉に鳴らし、矢の位相を揃える。一拍ずらしの面制圧。
黒帆の舷側で火花が散り、先頭船の水夫が舌打ちを海へ吐いた。
「魔導弾、来る!」リナが目を細める。
黒帆の中段、真鍮の砲口から黒い球が膨らみ、渦を巻いて飛ぶ。**自律補正式(パラ・オート)**つき――古代演算機構を真似た粗い術。
「【複写陣(コピー・グリフ)】――式を模写。
【改造】――逆流・減圧・分配!」
黒球は三つに裂け、それぞれ海風へ溶ける。残った熱は俺の掌で受けて地脈へ落とす。
足裏から骨に響く低い唸り――港は生きている。石は覚えている。守るべき動線と、燃やしたくない荷の匂いを。
「アレンさん!」リナが袖を引く。「あそこ、網倉が――」
「見えてる。導線を入れ替える」
「【改造】――避火導路(ファイア・ドレイン)」
倉庫の梁の内側に、目に見えない“燃え流路”を挿す。火は梁の外へ吸い出され、海風で冷える。
船大工が柄で甲板を叩き、「この材は血で汚すためのもんじゃねぇ!」と吠えた。
港は、嫌でも一つの仕事場になっていく。
──
押し波:黒帆の接舷戦
敵の先頭二隻が腹を見せ、接舷鉤が唸りを上げて飛ぶ。
鉤の鎖に俺は指で空を弾く。
「【改造】――共振偏移(フェイズ・シフト)」
鎖の節々の固有振動を半拍ずらすと、鎖は自分の波で絡み、鉤は船腹で空しく跳ね返った。
それでも三本が埠頭へ食らいつく。黒外套の斬り込みが綱を渡る。規格狩りの紋、混ざっている。
「前は俺だ」ガロムが笑った。「殴る相手が見えた」
大斧の背で喉を外さぬ角度にどつき、膝を刈り、三人まとめて海へ落とす。
俺は桟橋の杭に掌を押し当てた。
「【演算掌握(ドミナント・オペランド)】――導線奪取(ライン・ハイジャック)」
敵の突撃導線を**“迷い路”に再配線**。板のきしみ、縄の張り、足の置き場――すべてが半拍ずれる。
黒外套が自分の影に足を取られ、海へ白い泡が二つ三つ咲いた。
リナの声が澄む。「【光鎖(ルクス・チェイン)】!」
倒れた斬り込みの手首を絡め、船べりに固定。非致死拘束。
「殺すな、港は仕事場だ」と俺は繰り返す。言い聞かせているのは、敵でも味方でもなく、港そのものだ。
──
炎上:倉庫火災と市民群像
風向きが一度変わり、埠頭の最後尾で火の手が立った。油樽の列――最悪だ。
女将が濡れ帆布を肩に走り、孤児たちがバケツを抱えて続く。
「線の中、線の中!」と子らが互いを引っぱる。俺が朝に引いた避難導線だ。
「【改造】――煙道形成(スモーク・フルー)」
屋根裏に見えない煙の道をつくり、炎の息を港外へ引き抜く。
リナがその道に光の指標を浮かべる。「ここ、ここです!」
市民が列を作り、火は生き物のように退路を得て弱っていく。
船大工は火の粉を浴びながら、船腹を叩く。「こいつは海へ出るための胴だ! 焼くためじゃねぇ!」
その拳に、俺は短く応える。「船底に冷導管を入れる。持つ」
「【改造】――熱冷反転(サーマル・インバート)」
板材の導管を一時的に組み替え、冷を内から外へ送る。
船は生き延び、火は港の外へ逃げ道を選ぶ。殺さずに勝つ設計は、火にも通る。
──
規格狩り:線を盗む者たち
霧の陰で、黒外套の女が袖の裏で薄い板金を返す。規格狩り(スタンダード・ハンター)の首領だ。
板金の上には盗線式(ライン・スワイプ)の小さな陣。俺の引いた導線をまるごと切り取り、別の意志に接続する罠。
足場の影がふっと冷える。線が抜かれかけた。
「そこだ」
俺は板金が触れている港の骨に掌を置く。石が小さく震え、誰の手が線を盗ったかを告げる。
「【街路録】――犯跡抽出(インシデント・トレース)
【演算掌握】――線権奪還(ルート・リクレイム)」
盗線式の結び目を四分の一拍だけほどき、港の声へ戻す。
女の口元が愉快そうに歪んだ。「やはり、あなたは殺さないのね。だから、折れる」
「折れない設計もある」
「楽しみにしてる」
女は霧にほどけた。匂いだけが残る――錆、血、遠い砂漠の香。
──
潮路:回廊を敷け
黒帆はまだ来る。桟橋の角度、潮の返し、外海のうねり――全部が一つの巨大な式に見える。
やるべきことは、一つだ。
「潮で殴るんじゃない。潮で押し流す」
俺は両手を広げ、空と海と石畳を同じ図面に重ねた。
「【解析】――潮汐位相、海底等深線、港内反射波。
【複写陣】――**海路図(シー・グリフ)**の模写。
【改造】+【演算掌握】――潮路回廊(タイド・コリドー)、展開」
港口から湾曲した見えない水の道が四本、外海へ伸びる。
入り込む波は回廊で棹を得た船のように速度を増し、外へ向かう波は渦に崩される。
黒帆の列は、港内で転回できなくなった。
ガロムが目を剥く。「おいおい、海が滑走路になってるぞ!」
「まだ終わらない。摩擦を上げる」
「【改造】――船底渦紋(ヴォルテックス・タトゥ)」
敵船の船底へ“渦の刺青”を刻む。水の抵抗は味方であり得る。
黒帆の先頭が足を取られ、後列が押して横向きに詰まる。
港内の波は回廊に沿って掃き出され、油と火が外へ持っていかれる。
リナの杖が白く鳴る。「【光標(ビーコン)】――退路指標!」
市民の退路に光の糸が走り、孤児が「線の中なら大丈夫!」と笑って駆ける。
線は、渡るためにある。
──
逆襲:闇光銃の試射
黒帆の中央船の甲板で、黒い箱が持ち上がる。古代兵器の模造。闇と光の双相を無理やり詰めた、闇光砲(ギアス・キャノン)。
詠唱がない。演算機構が直接、砲身の算を回している。
「まずい、港口が焼かれる――!」
リナが顔色を変え、俺は**工房(ワークベイ)**で仕上げた銀黒の銃を抜く。
《闇光銃(ルーメン・ノクス)》。古代の芯を最適化し、安全導管を二重化した俺の改造品だ。
「【無限設計(インフィニティ・ブループリント)】――欠落補完。
【改造】――閾値制御(スレッショルド・ゲート)」
銃身内部で闇と光が相殺でなく循環するように配線する。
引き金は軽い。反動はゼロ。
白と黒の細い線が港口を横切り、闇光砲の演算核だけを焼いた。
黒箱は音もなく沈黙し、甲板の上で人が座り込む。死んでいない。俺が焼いたのは回路だけだ。
「連射は?」
「許容内。港の許容量も守る」
次の黒箱、次の演算核。三射目で模造群は黙った。
──
市民とギルド:仕事の戦
魚市場の女将が桶を投げ、船大工が楔を投げ、パン屋が水を投げる。
冒険者は金にならない戦に入った。
「港が死ねば仕事も死ぬ!」
ギルドの論理は、いつだって生々しい。だから強い。
ガロムが怒鳴る。「金貨一枚だ! いまこの瞬間に倉庫を守った奴は、俺が明日、現物で払う! 王都ギルドの名に懸けて!」
歓声が風になる。線は、人だけじゃなく、意志も運ぶ。
──
決壊:黒帆総退却と政治の溝
潮路回廊に乗せられた黒帆は、外海へ掃き出される。
港湾同盟の旗が二度、三度、悔しそうに揺れて、霧の縁で消えた。
火は線の外へ出ていき、煙は海風に削がれ、港には焦げ跡だけが残った。
それでも十分だ。焦げは明日の仕事の邪魔にはならない。
商人ギルドの幹部が青い顔で桟橋に現れ、「交易の流れは我らが……」と何か言いかけ、市民の拍手に飲み込まれた。
「港は生き残った!」
「図面で守れた!」
拍手はいつの間にかリズムを持ち、波打ち始める。世界規格図の層が、ほんの少し柔らいだ気がした。
──
余韻:規格狩りの置き土産
静けさが戻る直前、港の最奥で薄い金属音がした。
残置罠(ブービー・ライン)。俺への置き土産。
港の骨に掌を置き、微細な逆位相を二つ挟む。
「【改造】――無害化(セーフ・ダンプ)」
罠は自分で自分を分解した。
規格狩りの女の笑い声が風に混ざる気がした。「折れない、ね」
「折れない。港は仕事場だ」
俺は繰り返す。宣誓のように。
──
黄昏:潮目の先にあるもの
夕陽が海面に割れて落ち、埠頭の影が長く伸びた。
リナが《フェイズ・リング》を撫で、「救えたね」と小さく言う。
「ああ。殺さずに、勝てた」
「でも、まだ次がある顔」
外海のはるか向こう、帝国艦隊の白い線が水平線に浮かぶ。
砲口の数、帆の段、旗の配置――規格が違う。海そのものを測量して持ち込む国。
世界規格図の片隅が、また黒く滲んだ。
「合意の層を増やす。剣でなく、規格で」
俺は掌を空へ向ける。
「【演算掌握】――多層固定(マルチレイヤ・ロック)」
今日、港で生まれた合唱を薄い膜で留め、次の棘へ摩擦を与える。
港は息をつき、石は新しい声を覚えた。
――“決めてくれ。戦わずに済むなら、何でもいい”。
預かった声は、明日の図面になる。
ガロムが樽ごと持ってきて笑う。「乾杯だ、設計監! 金貨の支払いは明日だが、酒は今日だ!」
セレスは遠くの白線を睨み、「一日だけ買えた時間、最大限に使いましょう」と剣の鞘を叩いた。
リナは空の淡い線を見上げ、「私も速くなる。二拍を一拍に」と指を握る。
「なら、俺は一拍を無音にする」
潮の音が一度だけ高くなり、夜が降りてきた。
港炎上の一日は終わった。だが、規格文明の戦は、ここからが本番だ。
──
戦後付記(港記録局写)
• 倉庫損耗:小破3、中破1(焼失0)
• 市民負傷:軽傷21、重傷2(死者0)
• 敵捕縛:斬り込み28、魔導兵4、規格狩り下位2(全員生存)
• 収得物:闇光砲演算核(不全)×3、黒帆舵輪の渦紋、盗線板金(無力化)
• 賞与:ガロム個人立替・金貨計37(翌日ギルド本部清算)
• 合意層:**港保全規格(プロビジョナル)**草案——火災導路・退路ビーコン・潮路回廊の三点を標準化検討
備考:本件で確認された潮路回廊は、海難救助および交易増幅に転用可能。軍事利用は**“遅延”**に限定すべきとの合意形成が始まっている。
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