高橋冬華⑦

 十二月。しんしんと雪が積もり、村は白一色となった。朝早くに起きて雪かきをするのが冬限定の日課になる。

 冬華は、河嶋を刺激しないように従順を装っていた。泣きぼくろを書くことを忘れず、河嶋が喜ぶような行動を取る。嫌で仕方がないが、機嫌が良ければ質問をして答えてもらうこともできるようになるため、奥歯を噛み締めて堪える日々。

 すべては、春奈を守るため。河嶋を村から追い出し、二度と戻ってこさせないようにするため。そう自分に言い聞かせて。

 新年を迎えて一月。冬休み期間は、冬華にとって心休まるものだった。残念なのは、夏休みよりも短いというところ。

 それでも、二週間ほど冬華らしく過ごせた。鏡を見ても、泣きぼくろはない。誰からも春奈らしさを求められない。ただ、もう身体に染み付いているのだろうと実感する出来事があった。

 笑い方が変わったと、母親から言われたのだ。

 これまでなら、もっと朗らかに口を大きく開けて笑っていたが、くすくすと大人びたような笑い方に変わったとそう言っていた。子どもから大人になろうとしているのだろうと母親は言っていたが、冬華は身体の震えが止まらなかった。

 そのようにして笑うよう、河嶋から叩き込まれたのだ。

 春奈は、口を大きく開けて笑わない。静かに、それでいて上品に。そうやって言われ続けてきたがために、本来の笑い方を失ってしまった。河嶋が望む春奈に近づいてきている。

 このままでは駄目だ。自分は高橋冬華であり、春奈ではない。河嶋が望む春奈でもない。従順な素振りを見せているのも、河嶋をこの村から追い出すため。冬華が春奈になるためではない。これだけは決して忘れてはならない事実だ。

 だが、冬華の意思とは反して身体に染み付き始めている。河嶋が思い描く春奈が。

 怖い。怖い。高橋冬華という存在が、この世から消えてしまいそうで。

 その日の日記は、書いている最中に涙が止まらなかった。ぽたぽたとノートに落ちた涙は、インクを滲ませた。

 二月。ノートに書く内容は大体似たようなものだ。それでも、河嶋にされたこと、させられたことは残しておかなければならない。文字にするたびに胸が痛み息苦しくなるが、一文字ずつしっかりと残す。

 春奈を守れるのは、自分だけ。世界で二人きりの姉妹。冬華だけの、可愛い妹。あの笑顔を、明るさを、優しさを、この先に待っているであろう幸せを、河嶋に汚させてたまるものか。力が入り、ぱき、とシャーペンの芯が音を立てて折れた。跡が残ってしまったが、これもまた冬華の感情の証だと消さなかった。

 三月。いよいよ勝負の月が来た。何も悟られないよう普段通りに過ごし、河嶋の機嫌を取る。春休みまであと少し。呼び出すのなら、誰にも邪魔をされない春休みだと決めているのだ。

 でも、このノートは持って行かないと決めている。冬華が対峙しようとしている河嶋は、自身の母親の命を奪っているのだ。何もなければいいが、既に冬華も暴力を受けているため万が一という可能性もある。そこでノートすらも抹消されてしまえば、これまでのことが無駄になる。ノートは、何かあったときのために信頼できる者に預けておいたほうがいいだろう。といっても、一人くらいしか思いつかない。


「……面倒なことを頼むことになるけれど、ごめんね。翔太」


 河嶋に会いに行く際に、すべてを説明した上で預かってもらおう。迷惑をかけてしまうが、翔太ならばうまくこのノートを使ってくれるはず。冬華に、何かあったときに。

 それ以外にも、準備してあるものはある。河嶋の過去から現在に至るまでの言動や暴力行為、母親の死についての疑惑。それらをまとめた手紙を、教育委員会に宛てて送るつもりだ。これがどこまで通るかが未知数なのが痛いところ。少しでも、誰かの目に留まるといいのだが。

 椅子の背もたれに背を預け、天井を見上げる。

 ここまで長かった。辛かった。冬華自身を表に出せば、全面的に否定される日々。存在価値すらないと言われたこともある。自分ではないものにさせられようとしている気味の悪い感覚。

 何よりも、河嶋による春奈への異常な執着心。

 いや、あれはもう執着というより信仰に近い気がする。そして、その信仰が崩れそうになれば暴力によって矯正していくのだろう。河嶋の母親や、冬華へしてきたように。春奈にだけは、このような目に遭わせてなるものか。

 ずっと抱えてきた想いや、これから迷惑をかけるであろう翔太への謝罪などを書いていると、涙が滲んだ。

 今、ここに書いているのは遺書に近い。冬華がしようとしていることは、河嶋を逆上させてしまうとわかっているからだ。無事では済まないはず。

 いつものように叩かれるだろうか。怒りに身を支配されていれば、いよいよ殴られるかもしれない。蹴られたりすることや、他にも暴力的行為が考えられる。

 シャーペンを持つ手が震える。それでも、冬華は春奈にメッセージを残した。


「お姉ちゃんは、何があっても春奈の味方だからね。ずっと傍にいて、絶対に守ってあげる」



 * * *



 ──中原から受け取ったノートの最後は、この言葉で締め括られていた。次のページも、そのまた次も、何も書かれていない。

 ノートの最後に書かれていた言葉は、聞き覚えがある。この言葉に、どれだけ救われたことか。

 少しずつ、春奈の記憶の扉が開いていく。

 いつも笑顔だった姉。何かあるとすぐに「可愛い」と抱きしめてくれて、春奈が好きなプリンを買ってきてくれた。皿を出し、一緒にプリンを容器からそこへ移して食べたりもした。

 ノートを握り締める力が強くなる。どうして、どうして忘れてしまっていたのだろう。

 二〇一一年三月三十一日。あの日は、嗅ぎ慣れない線香の香りが家に充満していた。普段は使わない和室に布団が敷かれ、そこに真っ白な冬華が眠っていた。

 いつも通り眠っているのに、触れるとひどく冷たく、首には包帯が巻かれていた。幾度も「おねえちゃん」と呼びかけても、目を開けてくれることはなく、当然返事もなかった。

 大好きなプリンを二つ、冷蔵庫から出してきたりもした。食べよう、と声をかけた。左肩を掴んで揺さぶったりもした。けれど、冬華は目を覚まさない。春奈は何度も、何度も「おねえちゃん」と呼び続けた。憔悴しきった母親が、弱々しい力で止めるまで。


「お姉ちゃんは、もういないの」


 春奈はまだ幼く、誰の死も体験していなかったため、死という概念を理解できずにいた。

 冬華はもういないと言われても、すぐそこで眠っている。いないはずがない。母親を振り切ってもう一度冬華へ近づいたとき、背後から父親に強く抱きしめられた。


「春奈、お姉ちゃんはもう目を覚まさないんだ。もう、何も……っ」


 何で、目を覚ましてくれないのか。確か、そんなことを思いながら、眠る冬華へ必死に手を伸ばした。


「おねえちゃん! おきて! おねえちゃん! ねえってば! おねえちゃん!」


 葬儀のときも、泣きながら大暴れをしていた気がする。火葬場に着いたときは、これから行われることを知って棺にしがみついたりもした。引き剥がされると、ついていくと泣きながら叫んだ。

 ああ、全部。全部、思い出した。思い出したことで、“あの子”の正体もようやくわかった。

 “あの子”は、冬華だ。間違いなくそうだ。


「……これ、冬華と撮った写真。もし疑われたときのために、出そうと思って持ってきてたんだ」


 中原から差し出されたのは、一枚の写真。そこには、若かりし頃の中原と冬華が写っている。中原曰く、入学式の際に撮ったらしい。


「……お姉ちゃん」


 写真に写る冬華を指でそっとなぞった。涙が溢れ、頬を伝って机の上に落ちた。

 これまで、忘れてしまっていたことが申し訳なさすぎる。ずっと、見守ってくれていたというのに。


「……あれ?」

「どうしたの?」


 ずっと見守ってくれていたのなら、何故今になって姿を見せるようになったのか。自分の存在を忘れてしまっているとわかって、思い出してもらおうと出てきたのか。だとしても、冬華を忘れてしまっていたのはつい最近の話ではない。

 一つ気になることが浮かべば、他にもふつふつととめどなく湧いてくる。

 河嶋と女子生徒達に敵意を向けていたのは。

 笹山が首を吊ったとき、笑っていたのは。

 今も、“あの子冬華”に泣きぼくろがあるのは。

 ふと、ノートの最後に書かれていた言葉が目に入った。何となく見つめていると、中原が小さく笑った。


「……冬華のことだから、今でも河嶋から君を守ろうとしているかもね」


 その言葉を聞いて、中原が書いていたブログの内容が頭をよぎる。

 

『桜が咲く時期が来ると、毎日のように夢に見る。

 満開の桜に囲まれながら、制服姿の冬華がロープで首を吊っているあの場面を』


 思い出した記憶の中の眠る冬華は、首に白い包帯が巻かれていた。


「……お姉ちゃんは、自死、だったんですか?」

「いじめを苦にしてって言われているけれど……冬華と最後に会ったのは河嶋で、亡くなった理由についても河嶋がそう言ってるだけなんだ」

「それって……」


 小さな村では、黒と言われれば白でも黒になる。その逆もまた然り。

 これは、冬華が遺したノートに書いてあった父親の言葉だ。

 このとおりであるならば、ありえないことではない。自身の母親の死を隠蔽した河嶋なら、冬華の死も同じ手で──。


「あの……このノート、お預かりしてもいいですか?」

「いいよ。君のお姉ちゃんのものだから」

「ありがとうございます」


 いい時間だと二人は店を出て、駅で別れた。帰り際、中原からは「力になるから無茶だけはしないでね」と言われた。

 春奈は村へ帰るための電車に乗り、預かったノートが入ったスクールバッグを抱きしめる。

 以前、河嶋が言っていた。昔、受け持った生徒がいじめられて、その辛さから自ら命を絶ってしまったと。この生徒とは、冬華のことを言っていたのだろう。今もそうして嘘で身を固め、周りに信じ込ませている。嘘を続けていれば、やがては真実になるからだ。


「……わたしが、仇を取るから」


 ただ、気になることはある。笹山と畑中のことだ。冬華が首を吊った木のことを中原に訊き忘れてしまったが、二人と関係がないとは思えない。

 認めたくはない。認めたくはないが。春奈は深く息を吐き出すと、顔をスクールバッグに埋めた。

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