第二夜 支配
二日前の夜――工場の床が一瞬にして崩れ落ち、瓦礫と鉄骨の臭いが鼻腔に突き刺さった。茉奈の手が触れた冷たさ、そして自分の体が異様に重く、耳に届く音や風の揺れ、時間の流れまでもが歪んだあの瞬間――そのすべてが、まだ鮮明に記憶の奥底で息をしている。落下の衝撃、瓦礫の粉塵――あらゆるものが異質だった。
あの体験は、単なる事故ではなく、自分の感覚が別物の何かに置き換わった瞬間だったのかもしれない――耳に届く音も、風の揺れも、時間の流れさえも、まるで違って感じられた。その知りたい衝動を胸に抱きながら、俺は工場に向かう。
通勤路で茉奈と出会う。彼女の目には微かな笑みが浮かぶが、その奥に隠された不安の色を俺は見逃さなかった。
「おはよう、尊。……大丈夫? ちゃんと眠れた?」
「いや……特には。ただ……変な感覚は残ってる」
俺の言葉に、茉奈は小さく息を吐き、肩の力を抜こうとするが、指先はわずかに震えていた。俺のせいで、こいつを不安にさせている。それだけは、あってはならないことなのに。
尊と並び歩きながら、茉奈は無意識に周囲を警戒する。歩道沿いの監視カメラが光を反射し、街灯の下の警備員が小走りに巡回する。茉奈の視線は自然とカメラや警備員へ向かい、胸の奥で小さくざわめくものを感じていた。
街を見渡すと、銀髪銀眼の住人たちの表情にも微妙な違和感がある。眉をひそめ警戒する者、視線を逸らして足早に去る者。茉奈もそれを目にしながら、胸の奥で昨日までの異常体験を思い返す。
二日前のあの出来事が再び起きるかもしれない――無意識に歩みを早め、肩をぎゅっと抱く。街のざわめきが、まるで自分たちを監視しているかのように感じられた。
歩道沿いの巨大スクリーンには、黒髪新生児が強制収容されるニュース映像が流れていた。母親は泣き叫び、抱きしめた赤ん坊を引き離される。
AIのナレーションは冷たく、「Code81区域から黒髪新生児が確認され、帝国保安局が隔離措置を取った。黒髪で生まれた子供は危険因子」とだけ伝える。コメント欄には偏見に満ちた言葉が並ぶ。「悪魔の子だ」「帝国のために隔離されるべき」「親も無能だろう」――その無神経さに茉奈の小さな胸が締め付けられる。彼女は一瞬、スクリーンから視線を逸らし、拳を軽く握りしめる。
もし、尊の髪があの時、黒いまま戻らなかったら? スクリーンの中の母親のように、泣き叫びながら彼を引き離される光景が脳裏をよぎる。――尊が、私から奪われる。その想像を絶する恐怖に、茉奈は思わず拳を強く握りしめた。この子だけは、私が守ると決めているのに。
尊は画面を見上げながら心の中でつぶやく。
「……Code81、ね。俺たちにとっては日本のはずなのに」
「今年に入ってもう三人も黒髪で隔離されたらしい……いつもは1人もいない年もあったのに。急に増えたのは何でだろう」
茉奈の声は小さく震える。普段は落ち着いた雰囲気の彼女が、胸の奥で恐怖を隠せずにいるのを感じる。尊は何も答えられなかった。スクリーンに映る母親の悲痛な叫びが、なぜか胸の奥深くに突き刺さる。まるで、遠い昔に自分が失った何かを思い出させるように。隣で震える茉奈の気配を感じ、俺はざわつく心を無理やり押さえつけた。
俺は歩きながら、黒髪で生まれることの意味を改めて理解する。生まれながらに危険因子とされ、隔離され、研究対象として扱われる――それがこの世界の現実だ。そして、二日前の地下落下で覚醒した可能性のある感覚――音や風、時間の流れの異常――が、もし帝国に知られたらどうなるのか。茉奈の視線を横目で見ると、眉間にわずかな皺が寄る。心配、恐怖、そして、何かを予感する気配がそこにある。
街の住人たちは表面的には日常を装うが、目線の端々に警戒心が滲む。無意識に距離を置き、視線を逸らす。茉奈もその波を感じ取り、時折立ち止まって歩行者を確認する。内心は、尊が二日前に経験した異常な感覚――覚醒の兆候――と、黒髪隔離の現実が直結する恐怖で揺れる。歩くたびに微かに震える足元、手のひらの汗、視界の端でちらつく監視カメラ――すべてが見えない鎖のように茉奈を縛る。
地下落下の記憶が鮮明に蘇る。瓦礫が崩れ、暗闇に包まれた空間で、音や風、時間の感覚が異常に遅く感じられたあの体験――あの瞬間、もし自分が黒髪だったら、帝国に目をつけられていただろう。茉奈もその可能性を心のどこかで感じている。肩が微かに震え、視線は前方を注ぎつつも、心は過去と未来の恐怖に引き裂かれる。
「尊……もしあのとき、あの後もずっと黒髪だったら……」 茉奈の声が少しだけこわばる。俺は無意識に彼女の前に立ち、監視カメラの死角になるように体をずらした。
「……今度は俺が守るよ」
口から出たのは、理屈ではなく、物心ついた頃から胸に刻まれた誓いのような言葉だった。茉奈は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。その瞳に宿る信頼だけが、この狂った世界で唯一確かなものだった。
工場の入り口に着くと、作業員たちは規則正しい動作でラインに入っている。ベルトコンベアは床が抜けた騒動がなかったかのように唸りを上げ、鉄骨の床も突貫工事で修復されていた。
「……何事もなかったみたいだな」
だが、胸の奥には違和感が残る。二日前の体験は確かに存在した。音や風の揺れ、瓦礫の微細な振動――それは確かに体験として残っている。だが、何を意味するのか、どう活かせばよいのかはまだ分からない。茉奈も横目で俺を見つめ、何かを考えているのか微かに眉を寄せる。
そして今日も、帝国の監視下での“静かな支配”の中、俺は茉奈と共に不思議な違和感と恐怖を胸に抱えつつ、日常を生きるのだった。視界の端でチラリと光るカメラ、足元の微かな振動、作業員の微妙な表情――それらすべてが、まるで無言の警鐘のように俺たちを包む。
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