第2話 背中を追う視線の先で(Side:美友希)

午後の光が床を照らし、校舎の中で淡く揺れていた。

テスト明けの解放感は一瞬で消え、胸がきゅっと縮む。


窓越しに見えたのは、先生と話す先輩の横顔だった。



試験が終わった午後の校舎には、周囲から安堵の息がゆっくりと溶けていた。


窓の外から吹き込んだ風は、汗ばんだ頬をかすめて気持ちいい。


美友希(……やっと終わったぁ)


心の中でつぶやくと、肩の重さがふっと抜けていく。


テストが終わったばかりで、答案はまだ返ってきていないけれど。

今だけは不安な気持ちを心の隅に置いて、解放感に浸っていたい。


美友希「鈴音なんて、帰りのHR忘れて教室飛び出してったもんね。」


あのときの鈴音の弾ける笑顔を思い出して、ひとりでに笑いがこぼれた。


窓から斜めに差し込む陽の光が廊下の床を照らし、反射してきらきら光っている。

その眩しさに目を細めながら、私はひとり生徒会室へと歩いていった。


生徒会室のドアまで、あと少し。

そう思ったところで、廊下の空気がふっと動いた。


窓の隙間を抜けてきた風が前髪を揺らし、同時にグラウンドの方から甲高いホイッスルの音が届く。


美友希(あ、氷瀬先生だ――)


反射みたいに足が止まり、私は横の窓へ目を向けた。


掛け声とスパイクの音が響くグラウンド。

その空気を切り裂くように、ホイッスルがもう一度鳴った。


その端に、氷瀬先生と3年生の先輩が並んで立っていた。


先生は黒いジャージ姿で、午後の白い光を背に受けていた。

落ち着いた姿で、少し身を屈めて先輩の言葉に耳を傾けている。


先輩は真剣な面持ちで何かを伝えているようで、ときおり手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。


グラウンドのざわめきの中、二人の間だけが別の時間に切り取られたみたいに、静かに見えた。


美友希(……覗き見てるみたいで、良くないよね……)


こんなこと、よくないって頭では分かっている。

でも、わたしはその光景から、目が離せなくなっていた。


聞こえない言葉の行間を勝手に想像して、胸の奥がざわついた。

それでも、視線だけは逸らすことができない。


先輩との話が終わると、氷瀬先生は先輩の前から静かに歩みを移した。

流れるように向かったのは、短距離を走る生徒たちのほうだった。


先生の背中が、静かにグラウンドの中に飲み込まれていく。

だけど、先輩はその場に立ち尽くしたまま、目だけで先生を追い続けている。


呼び止めることもせず遠ざかる先生の背中を、ただまっすぐにひたむきに見つめていた。


美友希(あ……先輩も、先生が好きなんだ……)


胸の奥がきゅっと締めつけられた。

私の知らない場所で、先生を想っている人が確かに存在している。


分かっていたはずのことなのに、現実を突きつけられると息が苦しくなる。

それだけで、心のどこかが静かに軋んだ。


美友希(……先輩も、卒業式で先生に告白するのかな…)


そんな考えが浮かんだ瞬間、胸の奥にじわりと重さが広がった。


想像にすぎなかったはずの“噂”が、目の前で形を持ち始めた。


氷瀬先生は女子生徒にとても人気がある。

毎年、卒業式には告白されている――そんな噂を何度も耳にしたことがある。


この先輩も、そのひとりになるのかもしれない。

背中を見つめるあの姿を見れば、想像なんて簡単にできてしまう。


そしてつい、自分のことを考えてしまう。


美友希(……じゃあ、わたしは…?)


わたしは、氷瀬先生に想いを告げることはできるのだろうか?


……無理だ、わたしには、できない。

どれだけ先生を目で追ってしまっても、気持ちを言葉にする勇気は持てない。


なぜなら、わたしは知っているから。

先生の心には、ずっと花乃井はなのい先生しかいないということを。


どれほど多くの生徒が氷瀬先生に憧れても、その心の扉が開かれることはない。


美友希(……だからきっと、先生は誰の告白も受け入れない)


そう思うと胸が痛むのに、同時に少しだけ安堵している自分がいる。


花乃井先生が先生の心を占めている限り、他の誰かに奪われることはない。

そんな卑屈な安心感に縋っている自分が情けなくて、みじめで、どうしようもなく嫌になる。


美友希(……わたしって、最低だな)


心の奥で、自分を切り捨てるように呟く。


好きだからこそ苦しくて、好きだからこそ醜い気持ちに絡め取られていく。

矛盾ばかりの想いを抱え込んだまま、ただ立ち尽くしていた。


そのとき、冷たい風が廊下を駆け抜けた。

髪がばさりと揺れ、制服の袖まで冷たさが染みる。


美友希「……さっきまで暑かったくらいなのに。」


そう呟いて、窓をそっと閉めてからカチリと鍵をかけた。

その金属音は、自分の中のざわめきを押し込める合図のようにも思えた。


美友希「……生徒会室、行かなきゃ。」


小さく呟き、もう一度グラウンドに視線を送る。

氷瀬先生の姿は、もうそこにはなかった。


窓を横目に、廊下を歩き出す。

足を前に出すたび、さっきまで心を乱していた光景が少しずつ遠のいていく。


美友希(――先生を好きになればなるほど……自分の嫌な部分がどんどん出てきちゃう)


こんなことを考えてしまうのも、自分の嫌な部分の1つに違いない。

そんな自分を否定するように、大きくため息をついた。


誰もいない廊下に、ため息だけが響く。

その音さえも情けなく聞こえて、息が胸の奥でつかえる。


それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


美友希「……もうすぐ体育祭だし、頑張らなきゃ。」


そう自分に言い聞かせると、鞄の持ち手をぎゅっと握り直し、生徒会室へ歩き出した。

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