その1

 そこは一面の白だった。

 広さすらわからないその中に、凌順はひとり立っていた。

「あの……」

 背後から掛けられた声に飛び上がり振り返る。

 そこにいるのは十歳ほどの、少女と呼ぶには若すぎる女児だが異様なのはその容姿。

 凹凸のない小さな身体を白いバニースーツに包んでいる。

「……児童虐待」

 思わずつぶやく凌順に白うさぎが続ける。

「持ち物を確認させていただきます」

「これ?」

 持ち上げたコンビ袋がかさりと鳴った。

「そうです。食べ物ですよね」

「そうだけど」

 袋を開いて差し出すが、覗き込もうとする白うさぎが必死に背伸びをしていることに気付いて、袋の高さを下げる。

 白うさぎは袋を覗き込んだまま問い掛ける。

「中は……ええと、お寿司とサンドイッチですか」

「うん」

 じっと袋の中に目を落としている白うさぎがじゅるりとよだれをすするのと同時にバニースーツの奥で胃袋がくうと鳴く。

 その様子に凌順は思わずつぶやいてしまった。

「食べていいよ」

「い、いいんですかっ」

 がばと顔を上げたその圧に押されながら勧める。

「ど、どうぞ、どうぞ」

「ありがとうございますっ」

 取り出したチキンカツサンドの梱包を解いてかぶりつく。

 凌順は改めて周囲を見渡す。

 どこまでも白く、なにもない、誰もいない、音もない。

「ここってさあ……どこ? もしかして、天国?」

 白うさぎが口をもぐもぐさせながら答える。

「ここは世界の境界に位置する……まあ案内所みたいなところです」

「世界の境界?」

 チキンカツサンドを口に運びながら当然のように答える。

「そうです。いくつも存在する世界のどこにも属さない境界です」

 凌順はそんな白うさぎを見ながら駐車場で魔法陣に巻き込まれたことを思い出し、あの魔法陣が世界間をつなぐ扉だったのだろうと納得する。

 しかし、納得すると同時に違和感も覚える。なぜ自分は混乱していないのか、不安を覚えていないのか、魔法陣による世界間移動を当たり前みたいに認識しているのか――と。

 ただ、これに似た感覚には身に覚えがある。

 それは夢の中である。

 どんなに非現実的な状況に身を置かれても、夢の中では当然のように受け入れている。

 今の凌順はまさしくそんな感覚だった。

 そんな感覚の中にいるのは〝世界の境界〟という非現実な世界にいることで凌順の脳みそが夢の中にいるような錯覚を起こしているのか、あるいは本当に今の自分が夢の中にいるだけなのか――にこにことチキンカツサンドを頬張る白うさぎを見ながら、そんなことを思う。

 そして、そういえば一緒にいた塚口家の次女はどうなったのかと思い出し、聞いてみる。

「女の子もいたと思うんだけど」

「はい。彼女なら目的地に直行しました」

「直行? 別の世界に? 彼女だけ?」

「はい。三川凌順さんは食べ物を持ってましたので、確認のために止めさせていただきました」

 白うさぎが最後のひとくちを済ませて続ける。

「ここでは世界間の移動に説明や確認が必要な方のみ立ち寄って頂くことになってますので」

 言いながら空になったサンドイッチの梱包をくしゃりと潰す。

「あ、いいよ。入れて」

 寿司の入ったコンビニ袋を〝ゴミ箱代わりにどうぞ〟と開いて差し出す。

「ありがとうございます。ごちそうさまでした」

 コンビニ袋にサンドイッチの梱包をえいと落とす白うさぎに改めて問い掛ける。

「食べ物を持ってちゃだめなのか」

「食べ物って結構トラブルの種になるんです。目的地の世界では禁忌食材だったりして」

「禁忌食材?」

「たとえばですねえ、目的地における知的生命体ニンゲンが食材だったりする可能性もあるわけじゃないですか」

「確かに」

 ミノタウロスが治める世界にステーキを持参すれば、そりゃトラブルは必至だろう。

「他にも目的地の住人に勧めたり奪われたりすることで、感染症やアレルギーの原因を持ち込むことになったりと。なので食べ物を持参している人は全員ここで確認させて頂くことになってるんです。で、必要に応じて注意喚起したり没収したり……。あ」

「ん?」

「今回のチキンカツサンドとお寿司はどちらも問題ありません。ご協力ありがとうございました」

 そう言って警官のように敬礼する。

「いちいちチェックしてるのか。大変だな」

 もちろん凌順はどれだけの人数が世界間移動を行っているのかは知らない。

 周囲に世界間移動の経験者がいないことを思えば大した人数じゃないのかとも思うが、無数に存在する並行宇宙だのマルチバースだのを考えればけして少なくはないだろう。

 むしろ、知らないだけで日常的に人の行き来があってもおかしくはない。

 それらについて持ち物検査を行うのはやはり大変な仕事だろう。

 しかし、白うさぎはそんなことを思う凌順に――

「そうでもないですよ。世界間移動に食べ物を持参する人ってほとんどいませんから」

 ――心配無用と微笑んで問い返す。

「食べ物を持っているっていうことは……巻き込まれたんでしょうか」

「そうっぽい」

 改めて聞いてみる。

「元の世界へ引き返すって、できない?」

 巻き込まれただけであって望んで元の世界を離れたわけではない。

 確かに元の世界へ帰ったところで別に楽しい毎日が待っているわけではないけれど。

 帰ったら帰ったで、あのクソメガネと顔を合わせねばならない毎日ではあるけれど。

 それでも未知の世界へ行きたいとは思わなかった。

 振り返ってみれば、クラスや職場のリア充を中心とした多数派によって貧乏くじを押し付けられるばかりの人生を送ってきたのだ。

 そんな人生を送ってきたがゆえに、未知の世界へ行ったところで楽しいことが待っているわけでもなければ、かっこよく活躍できるわけでもないだろうとの諦観アキラメが先に立つ。

 凌順にとって未知の異世界へ行くというのは単に〝めんどくせえなあ〟でしかないのだ。

 そんな凌順が、今、考えていることは――とりあえず帰りたい、風呂に入ってコンビニ寿司を食べて寝たい――ただ、それだけなのである。

 白うさぎが困った顔で凌順を見上げる。

「気持ちはわかるんですが……。魔法陣に触れてた以上はその魔法陣が指定してた世界に行くしかないんです。あ、そうだ」

 なにかを思い出したらしい。

「本当はお伝えしないんですけど、チキンカツサンドのお礼に聞いて下さい」

「うん」

「これから別世界へ出るわけですが、別世界へ到着後はしばらく肉体が不安定な状態なんです」

 言ってる意味がわからない。

「? スライムになってるとか」

「そうじゃなくて、別世界へ到着した時点の肉体は元の世界にいた時の容姿や能力の記憶に基づいた肉体であって、安定するまで少し時間がかかるんです。なので、安定するまでの間に強くイメージすることでその世界での肉体を形成しなおすことができるんです」

「理屈はわからんが形成し直すことができるということは、別人みたいになれるってこと?」

「そうです。顔の造作や体格だけでなく年齢も変えられるので渋いおっさんだろうとかわいいショタだろうと、さらには異性にもなれますし」

「ほう」

「さらに能力も」

「能力?」

「〝鋼の肉体〟とか〝規格外の運動能力〟を得ることができたり、超能力とかも使えるようになったりするんです」

「超能力……ってなんだ?」

「たとえば手で触れずに物を動かしたりとか」

「魔法のことか」

「……現代っ子ですね」

「いや、それほどでも」

一応、謙遜してからため息混じりにつぶやく。

「……そうか、先へ――別世界へ行くしかないのか」

 確かに容姿が変わったり身体能力が増強したり特異能力が身についたりしたら、それはそれで現実世界とは違って楽しい異世界になるかもしれない――などと一瞬だけ思ったがすぐに打ち消す。

 そんなうまい話があるものか。

 これまでの人生を思い出せ。

 思い通り、願い通り、期待通りのものが手に入ったことがあったか?

 なかった。

 思い通り、願い通り、期待通りの結果が出たことがあったか?

 なかった。

 そんな人生だったのである。

 そんなことをぶつぶつと考える凌順を白うさぎが促す。

「他に気になることとかありましたら」

「え? そうだな。んー」

 我に帰ってとりあえず聞いておくべきことはないかと探してみるが、いきなり言われても思いつくものはない。

 なので最初に覚えた違和感を口にする。

「なんでそんな格好してんの?」

「おかしいですか? 普通だと思うんですけど」

 答える白うさぎが少し涙ぐんでいるようにも見えて慌てる。

「おかしくないおかしくない。かわいいよ。うん。似合ってる」

 〝普通〟の基準がわからないが、ここではこの子が普通だと言う以上は普通なのだろう。

 白うさぎの表情が輝く。

「そうですかっ。ありがとうございますっ」

 そして、まっ平らな胸を張る。

「異世界への誘導は白うさぎの仕事とルイス・キャロルも言ってますから」

「ルイス……キャロル」

 どこかで聞いたような気がする。

「ご存知ありませんか」

 その言葉に思わず見栄を張る。

「あ、ああ。もちろん知ってるよ。確か天文学者でバルカン星を……」

「……それ、ルイス・スイフトです」

 同時に白うさぎが腰から提げていた懐中時計が不釣り合いなアラームを鳴らす。

「時間です。お気の毒ですが、えと、その、頑張ってくださ――」

 聞き終えぬうちに周囲が暗転した。

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