第18話 初夏の図書館ー甘い居眠りー
博物館デートから二週間後。
六月の初夏の陽気に包まれたキャンパスで、エリックとリサの距離は、日に日に自然で深いものになっていた。
金曜日の午後、ラボの片づけを終えると、リサが言った。
「明日、図書館で勉強しない?」
「いいね。何時ごろ?」
「午前中から行こうか。涼しいうちに」
「じゃあ、10時に正面入口で」
横で聞いていたエドガーがにやり。
「また図書館デートか?」
「デートじゃなくて勉強だよ」
「“エリックの寝落ちにやさしい図書館”として有名だけどな」
「寝ないってば!」
リサとエドガーが笑い、エリックは頬を赤くした。
―――
快晴の土曜日。エリックは十分前に到着したが、すぐにリサの姿が見えた。
「おはよう、エリック」
淡いピンクのブラウスに白いスカート。初夏の光に似合う装いだった。
「おはよう。早いね」
「あなたほどじゃないわ。……楽しみにしてたでしょ?」
「……うん」
彼が認めると、リサはいたずらっぽく笑った。
館内のひんやりした空気が心地よい。窓際の二人席に並び、教科書とノートを広げる。
「来週のゼミで細胞生物の論文発表なんだ」
「私は神経科学の文献。がんばろう」
「うん」
最初の三十分は、二人とも集中していた。ときどき視線が交差する。
「……何?」
「ううん。集中してるあなたを見てただけ」
「僕こそ、リサの横顔見てた」
「もう」
頬を染めたリサが、テーブルの下でそっと彼の指を探し、やわらかく絡めた。
一時間ほどで小休憩。
「喉乾いたね」
「買ってくる。何がいい?」
「アイスコーヒー」
戻ってきたカップの冷たさが指に伝わる。
「美味しい」
「ね」
「恋人になって一ヶ月だね」
「本当だ。もっと長く一緒にいる気がする」
「分かる。自然すぎて、昔から恋人だったみたい」
リサは彼の肩にそっと頭を預けた。
「リサ、ここ図書館だよ」
「いいじゃない。他に誰もいないし」
「……嫌なわけないよ」
小声で返すと、彼女は満足そうに目を細めた。
再び本を開く。けれど、さっきまでの甘さが思考にやさしく絡みつく。
「集中できてる?」
「正直、あまり」
「私も。あなたのことばかり考えちゃって」
「僕も」
初夏の光が薄く揺れ、うとうとと眠気が押し寄せる。
文字がぼやけ、まぶたが重くなる。
「エリック?」
返事の代わりに、彼の頭がゆっくりとリサの肩へ落ちた。
(やっぱり寝ちゃった)
責める気持ちはない。むしろ愛おしさが胸に広がる。
少し開いた唇、規則正しい寝息、ほどけた表情――。
リサは教科書を閉じ、指先でそっと髪を撫でた。
「このまま、少しこうしていよう」
自分の頬も彼の頭に寄せ、目を閉じる。
静かな時間が流れる。遠くで本を置く音、かすかな足音。どれも子守歌のように遠い。
気づけば、二人は同じ呼吸で、同じリズムの眠りに落ちていた。
やがて、背後から気配。
「……おいおい」
エドガーだった。窓際の二人を見つけ、苦笑しながらスマートフォンを構える。
パシャッ。
一枚撮ると、起こさないようにそっと身を引いた。(後で送ってやるか)
しばらくして、リサが先に目を覚ます。肩にかかる重みと温もりに、思わず微笑んだ。
「エリック。起きて」
「……ん」
彼はゆっくり目を開け、状況を理解して照れた笑いをこぼす。
「寝ちゃった?」
「ええ、三十分くらい。私も少し」
身体を起こすと、リサの肩に小さな赤い跡。
「あ……ごめん。跡ついちゃった」
「大丈夫。あなたの重みの証よ」
そのときスマートフォンが震えた。エドガーから写真付きのメッセージ。
《お似合いのカップルだな》
「もう、エドガーったら」
頬を染めて笑うリサに、エリックも苦笑する。
「でも……いい写真だね」
「うん」
気づけば二時を回っていた。
「お腹空いたね」
「近くのカフェ、行こっか」
静かなキャンパス近くのカフェ。
窓からはやわらかい午後の日差しが差し込み、
通りを歩く人々の影がゆっくりと伸びている。
「……ごめん、ぼく、ほとんど寝てたな。勉強もあまり出来なかったね」
エリックが髪をかきながら苦笑する。
リサはストローを軽く揺らして、アイスティーの氷がカランと鳴る。
「ううん。私も途中からうとうとしてたし、でも一緒にいられたから良いの」
二人は顔を見合わせて、つい笑ってしまう。
テーブルの上には遅めのランチセット——
リサのサンドイッチ、エリックのパスタ、
そしてカップの上でふわりと湯気を立てるコーヒー。
テーブルの上で指を重ねると、胸の中にまた静かな幸福が満ちた。
食後は緑の多い構内をゆっくり歩く。フリスビーをする学生たちの笑い声、木陰の涼しさ、芝の匂い。
「いい天気だね」
「本当ね」
大きな木の下で休み、肩を寄せる。
「また寝るの?」
「ううん。ただ、こうしていたいだけ」
短くキスをして、同じリズムで息をする。
夕方、空がオレンジ色に傾いた。
「もうこんな時間」
「そろそろ帰ろうか」
駐車場で軽く抱きしめ合う。
「今日、本当に幸せだった」
「僕も。月曜、またラボで」
「ええ。気をつけてね」
その夜、エドガーからもう一通。
《図書館でのお二人、とてもお似合いでした。リサを大切にな。——神父より》
『ありがとう。写真、消してよね』
《嫌だ。一生の宝物にする》
思わず笑ってスマホを置く。親友に祝福されている――それもまた、確かな幸福だ。
恋人になって一ヶ月。
静かな午後と甘い居眠りは、二人の心にやわらかな刻印を残した。
明日もまた、同じ場所でページをめくる。今度は少しだけ、進む速度を落として。
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