死んだら浄土に行けるなんて本当に信じているのか?
母親は寺に生まれ、僧籍にあった。とはいえ、幼稚園教諭として働き、サラリーマンの父と結婚してからは主婦であったから、僕の実家はとくに宗教を意識させる家ではなかった。クリスマスはケーキを食べるしサンタクロースが来る。しかし正月の飾りは神道のものだからやらないという少し謎の家であった。
とはいえ夏と冬、毎年二回ほどは母親の実家の寺に行く。そこで朝夕に本堂の阿弥陀如来像に向かってお経と念仏を上げる。
しかし「仏とはなにか」「浄土真宗とはなにか」という話を誰かからキチンと聞いた記憶はない。
「阿弥陀如来という存在があり、すべての人々を見ている」「阿弥陀如来は風のように見えず形のない存在である」くらいは聞いた記憶がある。子どものころで、よく意味もわからなかった。
寺の本堂ではなく、祖父母が暮らす庫裡にも仏間があり、仏壇がある。そこに赤子の白黒写真が置かれている。母親の妹、ノリコという叔母の写真なのだと聞いた。ノリコは赤痢という病気のため2歳で死んだという。
「ノリちゃんは仏様になって浄土にいるの」と祖母は言っていた。祖母はなんとなく、ノリコという叔母に手を合わせ念仏を称えているのだろうと思った。ノリコは誕生日かなにかだろうか。写真館で撮ったらしき古い白黒写真の中で、綺麗な白い服を着て撮影用の椅子に座らされている。目を見開いてこちらを見ている。母親の2歳下の妹。その下の2人いる弟たちには会うことなく死んだ。
僕はそのまんま、仏教徒になることなく子ども時代を過ごした。祖父母から仏教説話の絵本や漫画をもらい、読むことはあったが、それだけでなにか信仰を強要されることはなかった。浄土や阿弥陀如来の存在を示すような証拠を俺は見たことがない。そしてまた人間の思考は脳により発生しており、脳は活動時に電気を放しているらしいという知識を得た。となれば人間は肉でできたコンピュータのようなものであろう。肉体が活動を停止し脳が電気信号を放てなくなって、なお自分がいま感じているような意識や、それ以外の「なにか」が残るということはなさそうだ。そう自然に思っていたし、今でもそれが現代における自然な感覚だと思う。
しかしそれでも今の僕は阿弥陀如来と浄土を信じている。それはたまたま17歳のころ、司馬遼太郎のエッセイを読んだことに始まる。そのエッセイのなかに歎異抄という親鸞と親鸞の弟子が対話した記録のような本について触れた一節があり、俺はなんとなく気になって古本屋に行った際、薄い文庫本の歎異抄を手に取ったのであった。
そこにはごく当たり前の人間の会話があった。浄土に行けるという話を疑い、死を恐れる人間の言葉。その言葉を受けて親鸞は「嘘であってもいい」というようなことをいう。他に自分が救われる道はないのだと。幼いころに僧となり、若き日に厳しい修行によって悟りを開こうとして挫折した男は、老境に入りただ一つ信じ、一生涯をかけて人々に伝えてきた教えについてそう語る。「嘘でいい。騙されていても仕方ない。それでも自分は信じる」
この歎異抄という本のなかで、なにも、なに一つ証明されたことはない。浄土の存在も阿弥陀如来の実在もなんの根拠もない。「嘘であってもいいから信じる」というようなことをいう男がいるだけである。
僕は、なんとなく信じてみることにした。別に嘘でもいいのだ。死んだらそのあとがあったっていいじゃないか。僕も救われることがあったっていいじゃないか。それだけの話だ。
もし本当は肉体が停止して灰になるだけでも、そうじゃないと信じていたっていいのだ。
それから10年ほどが経った。祖母は数年前に死んでいた。母親は肝硬変が肝癌になり、死にかけてホスピスを探していた。黄疸が出て腹水が溜まりたまに抜く。僕は実家を離れて東京で暮らしていた。実家に泊まったある日に「私に今年の夏は来ない」と母親はいった。「死ぬのは怖くないのか」と聞いた。「痛いのは怖いけどね、死ぬのは怖くない。浄土で待っているよ」と母親は笑った。僕はむしょうに悲しくなったが、聞いておこうと思い「本当に浄土があると信じているのか?」と聞いた。もうすぐ死ぬ人間に。死ぬまで続く痛みに耐えてモルヒネのパッチを貼っている人間にそれを聞いた。
「◯子さん(母の母)は信じていたからね。私も信じるよ。私は、私のお母さんを信じるよ」
母親は明快にそう答えた。僕はうなずくしかなかった。この人は死んだらお母さんに会えるのだろうか。数ヶ月後にこの人が死んだあと、いつか自分も死んでまたこの人に会えるのだろうか。赤子のころから自分を愛して育ててくれたしかし反りが合わなくて喧嘩ばかりしている母親に、また会える日があるのだろうか。そしてまたいつか妻や子が死んで、そのあと浄土で会えるなんてことがあるんだろうか。
会えたらいいなというのが僕の思いで、それ以上のことはない。嘘でもいいし騙されていてもいいと親鸞は言ったと歎異抄にはある。阿弥陀如来がどうやっても悟りなど開けず善人にもなれない、仏になれない人々を見ていて、追いかけ救ってくれるという。浄土に生まれ変わらせてくれるという。
そんな上手い話があればいいなと思う。いつかまた母親に会いたいと思う。妻と子と、会えなくなってもまたいつか会いたいと思う。2歳の娘を亡くした祖母は倒れて気管を切開したのち、「ずっとノリちゃんに会いたかった」と震える手でボールペンをにぎりメモ帳に書いていた。
ゆっくりと人は死んでいく。祖母と母親は死んだ。俺も妻も子どもたちもみんな死ぬ。それは変えることができない。
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