私はまるで、聖書を知らないキリスト教徒のようだった
「えりぞの父親はアスペルガーだ」というのは、2006年に俺が発達障害の本を買って母親に渡してから、ずっと我が家の定説になっている。
でも未診断なのだ。
「だっておれ困ってねーもん」
「おれは普通だっての。発達障害とか騒ぐ方が変なんだよ」
クソが!周りは困ってるんだよ!
発達障害の本を渡した数日後、読み終えた母親は自室に俺を呼んだのだ。
「私はまるで、聖書を知らないキリスト教徒のようだった」
蒼い顔をした母親は本を手にして絞り出すような声で言った。俺はいくらなんでもキリスト教に失礼だろうと思ったが、気を取り直して「そうだろう。親父は発達障害ってやつなんだよ」と勇気づけるように言った。しかし母親はその言葉を聞いている風もなく、独り言のように「私はこれまで、発達障害者に包囲されていたんだ」と呟いたのだ。当時21歳の俺は仰天した。
オイ!馬鹿!極端だよ!「スペクトラムって書いてあったろ。要素はあるだろうけどな、濃さはいろいろなんだよ」と俺は言ったが、母親は話を聞くことはなかった。
まあそんな俺はその10年後に発達障害で精神障害者手帳2級が出る。母親は正しかったのである。
さて、昭和30年代後半、親父の小学2年生、3年生のときの通信簿には「人と話せるようになりましょう」と書いてある。なんだよそれ。当然ながら、幼少期は知能に遅れがあるものと思われていた。
しかし、そんな彼も何故かペーパーテストには問題がなく、広島大学という、地元広島県内では東京大学の次に頭が良いとされる大学に入ってしまい、「あれは喋りがおかしいだけで実は頭が良いのだ」という謎の評価を親族内で得た。その後コンピュータ技師となって神奈川県内で就職したのであった。
1983年正月、見合いで中華を食べた母親は、見合い相手がチャーハンの小ネギをひとつひとつよけて食べるのを見た。
「そのとき嫌な予感がしたのよ」とのちに母親は語った。しかし母親は「広島大学卒、大企業勤め、姑は既に鬼籍で嫁姑問題なし、次男で家を継がなくてよい、神奈川で働いているから広島を出れる…」という見合い相手の条件の前に目を瞑ったのだと言った。それだけでなく、顔が母親のタイプだったことを俺は知っている。
母親の死後に母親が書いたラブレター的なものが出てきたからだ。
同日、父親はどうも人生初らしき見合い相手について「可愛くはないが、明るい人で、なぜかすごく気になる」と手帳に書き残している。
この手帳も母親の死後に母親が書いたラブレターと一緒に出てきたのだ。おそらく父が捨てようとしたものをゴミの中から母親が拾い上げ保管していたのだろう。
そんなわけで彼らは結婚した。1983年4月。神奈川に住む父親と広島に住む母親は数回しか会わず、婚約指輪や結婚指輪は父親の姉が用意して形ばかりに渡されたという。
で、俺が生まれる。未熟児であり、とてつもない頻度で熱を出し食べ物を吐き痙攣を起こす赤子だったという。
30年後、俺が父親に、前夜長女が夜中に高熱を出して夜間救急に連れて行き、眠れなかったことを愚痴ったら「馬鹿やろ馬鹿やろ!俺なんかお前のせいで毎週夜間救急に行ってたんだぞ!えりぞの100倍マシなんだよ!ざまみろ!良い気味だな〜」と30年前の怨みをここぞとばかりにぶつけられ「うるせえぞこの野郎!言い方ってもんがあるだろ!」と喧嘩になったほどである。
まあその話はいいや。結婚当初、母親は父親の異常な偏食に母親は悩まされていた。肉が嫌い。魚もアジ、タラ、サケくらいしか食べないのである。麺類は好きであった。広島風お好み焼きも食べられた。
母親は料理好きであったためこの好き嫌いに怒り狂ったが、どうしようもなかった。この問題は母親が死ぬまで解決することはなかったのである。
いやこの話もどうでもいいな。
そのころ、母親は車を運転中に他の車に衝突してしまう。それがどうも相手の運転手はチンピラのような男であった。トラブルになり1ヶ月ほど我が家に脅すような電話がかかって来ていたという。
ある日、母と父が飯を食っていたさい、当時の黒電話がジリリと鳴り、すっかり神経質になった両親は震え上がったという。そのとき、父親は食卓横の音を上げる黒電話に近づいて、受話器ではなく、本体ごとヒョイと持ち上げて母親の前に置き、「ハイ、お母さん」と差し出したという。
「あの時ね、ああ、コレはもう駄目だな。私は強くならなくてはいけないな。そう思って電話に出たのよ。それ以来怖いものなどないのよ」
母親はそういってガハハと笑っていた。
その25年後に母親は病で死んで、父親はいつのまにか定年を迎えてまだ再雇用で働いている。2人の孫は4人いる。母親は孫の顔を見ることなく死んだ。
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