厳格。


 凍てつくような冬の日が椎木翠にはよく似合っていた。彼女は凛々しい眉と繊弱な輪郭を帯びたすっきりした顎をそなえていた。或る冬の日に初めて出逢った彼女は、どこか鬱積したような昏い瞳をしていた。眠たげなその瞳の瞬きは、世界の構造を知り尽くしてしまって、そのあまりの退屈さに身体を持て余してしまっているようで、毀れてしまいそうなほど繊細な雰囲気を纏っていた。世界と連環する生命の鼓動を等閑にするように、彼女は白い吐息を溢しながら、黄昏時の空を仰いでいた。

「捨てるんですか?それ、」

講義を終えて公園を散歩していた僕は、翳が次第に濃くなっていく広葉樹林の小径にひとり佇んでいる椎木翠に話しかけていた。どうしてかこの儘だと、彼女が透明になって霧消してしまうのではないかという愚かしい空想が泛んだからだ。僕は吃驚する程人見知りであったのに、砂漠の蝶の羽搏きに竜巻を起こさせる偶然の恩寵とは素晴らしく、話しかける勇気を与えてくれたのだった。猫不寄ヘンルーダや薊や薔薇や紫陽花が冴えわたる剥製の碧色をして彼女に抱えられていた。翳を纏う花の死骸は捨てるには勿体無いほど美しかった。

「いいえ。葬送するの。――貴方も来る?」

斜陽が、愛おしげに草花の骸を抱える椎木翠の光背のように輝いていた。それはまるで花束のようでもあった。巨大な一凛の薊が、死児を死児とも思わないで共に餓死していくような不吉な熱情を彼女は有していた。僕は堪らなく彼女に惹かれて二三頷いた。僕の返答など端からお構いなしと云ったふうに椎木はくるり反転すると、闇の深まる小径を奥に進んだ。僕は微熱の病人みたく眠たげな桔梗ロベリアの後を蹌踉と追いかけていった。

 風の強い日だった。椎木は時折立ち止まっては、燃えあがる陽光を仰いで白い吐息を吐いた。僕はこの死骸の寵姫が、それまで幾度となく葬送する様を想い、無性に胸が熱くなるのを感じた。誰も介在し得ない厳粛な空間を自在に逍遥しながら、何時までも彼女は「時」を待っていた。僕は彼女に陶酔していたそれまでの感覚が徐々に醒めてゆき、無染となった感情の空間に敬慕や親愛というような別の感情が湧き上がるように思った。それは、まさに濃藍の宇宙に滲みこんでいく太陽のような思慕だった。彼女の相貌は翳を纏いはじめ、その美しく揃えられた眉や智慧を表象したような細い頸が見えなくなっていった。碧い彼女のワンピースも、黒のカーディガンも、可憐な白いスニーカーも、椎木翠の忠実な従者達は続々と拝跪し、空間を去っていった。僕もその一部になって喪われただろうと思った。暗闇に彼女の翠色の瞳がぞっとするほどの絢爛を包摂して、燈籠のように泛んでいた。

「頃合い。今日の葬送は上手くいきそう」

彼女は僕に背を向けて花の骸を寂蒔の暗闇に落としていった。可憐な草花は折り重なるようにして小鳥のように墜落していった。軽い音だけが微かに聴きとれた。それは、或いはそれまでの彼女の、哀切に充ちた悲鳴であったかもしれない。

「晩餐でも、どうですか」

僕の自然な提案に、彼女は微笑をもって応じた。これが僕たちの初めてだった。


 広い寝室の空間に僕の頬を打つ音が響いた。


 白く豊満な上裸の支配者は、僕の手を玩具でも扱うかのように強引に引き摺り、清浄なベッドの上に組み伏せた。手術室のような悍ましい冷えた感覚が僕の裸の背に拡がった。浮き上がった肩甲骨が翅を捥がれたように痛んだ。僕は打擲を受けた後の急激な現実感の君臨に放心状態になりながらも、早贄にされた昆虫の絶望的な足搔きを模倣するかのように、尚も彼女から逃げようとした。

「なぜ逃げるの?私は、貴方あんたの母親なのよ?」

彼女は追い詰められた鼠の少年に、諭すような奇妙に優しい声でいった。その瞳は興奮で虎のように潤み、呼吸は蹂躙する象の群れのように荒かった。支配を誇示するようなその声は僅かに狼狽を含んでいた。逆らうなんて信じられないと本気で思っているようだった。恐怖で過呼吸に喘ぎながら、僕は彼女の狂気の沙汰に拘泥した。

「何よ。その眼。私が何の為に貴方あんたを育てたのか、貴方あんたわかってるの?」

顔を覆って泣き崩れる僕の手を強引に引き剥がすと、聳え立つ城塞は強いて高らかに哄笑した。落城の危機とでも言わんばかりに数多の城兵が集結し、四面の敵兵から挙がる郷国の歌に対抗するが如くに鬨の声をあげているような無理な苦笑だった。それは縄張りを荒らそうとする猟師に対する獣の威嚇のようでもあった。僕は沈黙の軽蔑でそれに応戦した。寡黙は時に人間の欺瞞を暴くのに最も雄弁であるのだ。侮蔑は冷静を呼び、僕の身体は過去の人間の生贄ではないのだという意思が、破滅的な恐怖の果てにより強固に構築されていった。

「私はね、報われる必要があるの!貴方あんたに、どれだけお金賭けたと思ってるの?貴方あんたさ、役割を果たしなさいよ!人間にはね、役割っていうものがあるの。責任を果たさない奴が、生きていけると思ってんの?私が今まで貢いでやった分の役割を果たせよ!え、できないっていうの?冗談じゃないわ。私の努力はどうなるの?返事しなさいよ、ねえ!」

家庭の独裁者は僕の頬を強かに殴りつけた。鋭い痛みがはしって、頬を熱いものが滴るのを僕は感じた。真っさらなシーツの上に点々と血が涙のように落ちるのを妙に明晰な気分で眺めた。彼女の赤いマニキュアが偽証の灯をぎらぎら輝かせていた。彼女は荒い息の中に恍惚を蠢動させていた。黒髪を引き千切るように掴むと、繊弱な僕をあらぬ方へ引き倒した。

「いいわ、貴方の身体が何より正直だってこと、証明してあげるわ。今朝だって、私の手捌きで射精した癖に、まだ強情を張るのね」

針鼠のように身体を丸めて抵抗する僕をしなやかな彼女の肢が蹴りつける。僕は壁に叩きつけられた子猫のような短い悲鳴をあげた。露わになった下腹部を殴りつけて暫し麻痺させた後、禽獣はぐったりしている獲物をがっちりと握りしめる。彼女の分厚い掌の摩擦に抵抗するように肥大していくその塔をみながら、彼女は狂喜して勝鬨をあげるように、わけのわからないことを叫んだ。彼女の激情は鍵盤を辷り奏でられる音楽のようであった。母の白い身体は夏の盛りに歓呼する積乱雲のように僕の身体に圧し掛かり、苛烈に進撃を始めた。

「さあキスしましょう!私が貴方を育ててあげる」

僕は抵抗を辞めて母にすべてを委ねた。観念するのではない、屈服するのではない。堪え凌ぐことだ。襲われて朦朧たる意識のなかで、檻のなかの庇護者はそう思った。明晰な理性が本能と結託して、機械的な激しい運動から僕の身体を隠して不思議な静寂を誘った時、不意に僕に諧謔めいたある論理が泛んだ。それは滑稽かつ機械的であまりに図式化されすぎているような気がするが、一条の光線のように真理を穿つもののように思われた。それが神の啓示のように閃いた時、毀れかかった僕のすべてが赦されるような気がした。堪え凌ぐことだ、、、、。そして「時」が来るのを待つことだ。それは天使の喇叭のような、滝の落ちるような清浄な轟音を響かせてあらゆる岩壁を薙ぎ払い、併呑し、蹂躙するだろう。


 塒で月が満ちるのを待つ海亀のような僕の生活が始まった。


「K君の論理を試してみたいの。いつか君が私に話してくれたこと」

喫茶店の卓上で椎木翠は微笑を湛えながら言った。僕は無理をして頼んだ珈琲を啜りながら、些か困惑の感情を隠せないで腕を組み、徒に瞑目した。

「論理と現実は違うんだよ、椎木さん。僕は自分の論理が間違ってるとは思わないけど、実験するには幾つか現実の橋渡しになるような、つまりは実践的な応用を考えなくちゃいけないと思うんだ」

彼女も未だ馴れない珈琲をちびちび飲みながら、顔をいたずらっ子のように顰めてみせた。それからつけ加えるように、

「それっていつ完成するのかな。私は、今しかないと思ってるけれど」

僕はどうしてとは聞かなかった。実のところを言えば僕だって理論の完成をこの目で見たかった。僕は自ら育てた大輪の花叢に囲まれる花卉栽培者の幸福を羨望していた。論理の金襴は恥辱の穢れをも祓うのだと僕は信じている。安寧は現状の超克にこそ存在するのだと僕は疑わない。だが、僕はあまりに臆病で慎重な人間だった。失敗の恐怖が常につきまとった。もし試みが失敗すれば、僕等は真の若者のみが持ちうる純粋性を永久に喪失してしまうのだ。樹々を揺する木枯らしのように、枝を渡る蜥蜴のように懊悩と逡巡が繰り返された。理性の純潔を、理性から最もかけ離れた行為によって証明する。椎木翠とならそれを成せる気がしたが、僕自身の手で彼女を穢すことはどうしても出来なかった。

「遊戯と思えば良いの。私とK君の、高等な儀式」

彼女は球を抱え込むようにぱっと手を拡げた。それは基督を抱く聖母のような一途な慈愛が籠められているような気がした。僕は椎木が僕よりも僕の論理に親愛を抱いていることが無性に嬉しかった。僕は彼女に愛されなくても良かった。寧ろそういう清々しい性格こそ椎木翠には相応しいような気がした。彼女に振り向かれなくても、僕は隣にいるだけで途方もなく嬉しかった。彼女の忠実な陰翳になれることを祈った。そうだ、僕は彼女の一番美しい装飾品になりたい。青緑の焔に傅く金銅の燭台に僕はなりたかった。

 彼女は僕の論理を愛してくれたのだった。汚辱に塗れた僕の肉体よりも、純粋な精神を無条件に肯定してくれることが僕は嬉しくて仕方なかった。僕はようやっと、忌わしい肉体から遮蔽されたような爽快さを得られた気がした。

「私たちは、報われる必要があるの。過去の自分も未来の自分も、救えるのはK君の論理の証明だけだと私は思う。きっとそれは私たちの仲間の、唯一縋りうる希望になるはず。義を見てせざるは勇なきなり、だよ」

椎木翠の声はまるで駄々をこねる子供を諭すように柔らかかった。論理の殉教者という言葉が不意に泛んだ。磔刑に架ける人間が僕であることが途方もなく言葉を億劫にさせた。僕は撚糸を編む老人のように緩慢に言葉を繋いだ。

「僕に証明できるかな?君が穢される危機を冒してまで、途を外れた行為を僕はすべきだろうか?誰かが犠牲になる正義なんて正義じゃないよ。今ある僕らの安穏が持続できるならそれで良いじゃないか。――怖いんだよ。僕は、僕はあの母親の息子なんだ、どこまでいっても。その轍から逃れることは出来ない」

彼女は哀しそうに微笑むと袖口のボタンを外した。露わになった手首の痣は彼女の無垢な白い肌にはあまりに不均衡に滲んでいた。痛ましい裂傷は、彼女の瞳と同じ色をしていた。彼女は鼓舞するように手を差し伸べて言った。

「大丈夫。たとえ行為が正しい道から逸脱していたとしても、私たちはいつだって厳格だから。だから、大丈夫」

僕は感情の儘ならないまま、瞳を彼女に向けた。熱いものがこみあげてくるのがわかった。僕は椎木翠の手を握った。怜悧な少女の内奥に仄かな熱が籠もっていた。きっとこの燈火が彼女をこれまで生かしてきたのだろうと僕は思った。


 逸脱。


 がらんどうな僕の部屋で、彼女の言葉を反芻する。途端に椎木の身体が翳のように浮かび上がってくる。いつか隠されてしまった、その身体が。僕は顫える手を抑える。彼女の柔らかな唇は艶やかに桃色で、繊細な腕は可憐に嫋やかで、そのうなじは透明な輝きを放つ柔毛を供えている。なだらかな肩、翼が生えてそうな肩甲骨、清流のような曲線を描く背中。そして――息をのむほど素晴らしい翠の瞳。何を考えているんだ僕は、一体何を考えているんだ!僕は堪らなくなって、虚空に狼のように叫んでしまいたくなった。論理の崇拝者たるこの僕が。誰よりも厳格に生きてきたこの僕が。純粋な精神を誰よりも護ってきたこの僕が。


 どうしてあの子を芯から好きになってしまったんだ。


「貴方はきっと、私のことを真底恨んでいるでしょうね」

高校の進学を祝ってくれたのは、母だけだった。赴任先で不倫した夫に逃げられてからの彼女は不憫なまでに痩せ衰えて、白く豊満だった身体は褐色の滲みの浸食を許していた。変わらないモノは密林の野獣のような性欲だけだった。僕は憫笑を含みながら、傾いた廃墟に組み伏せられる緩慢な日常を繰り返した。母は僕の真新しい制服の釦を一つずつ外して裸にさせるのが好きだった。思うに、それが圧政の輝かしい不変性を象徴しているからだろう。少しずつ着実に成長しつつある宏大な僕の胸に涙を溢しながら悔悛する母を、僕は醒めた眼で眺めるのが好きだった。いつか天井は床になった。僕は剥製や標本のように寛容に母の愛撫を受け止めた。

「卑怯だよ、母さん。僕がそれで恨まないと言うとでも思った?」

僕は諭すような、それでいて的確に丁寧に彼女の腹を貫く言葉を紡いだ。串刺しにした虜囚の前で晩餐を食したという羅馬尼亜ルーマニアの伯爵の快感を僕は想った。

「そうだわ。きっとそうだわ。私は、、私は、貴方に許して欲しいんだわ」

彼女は縋りつく子供のように、行為中に声をあげて泣いた。狐の悲鳴のような醜さは、しかし誠実と純粋の信徒の堅固な城壁を崩すに値するものだった。その度に、僕は薄くなった母の髪を撫でるのだった。年に数回思い出したように帰還する愚劣な鼠をぞっとするほど冷淡な眼差しで迎えた執政官の姿は、最早どこにも見られなかった。の日は近かった。その日だけを楽しみに毎日生き永らえてきた、満月の夜は近かった。けれど、彼女の白髪や骨の浮いた腕や痩せこけた頬は、酷くその瞬間を興醒めなものにさせるのだった。

「元気だせよ。いつもみたいに僕を殴ってよ、母さん」

僕は静かに微笑を溢しながら言った。母親は泣きながら手を振り上げて僕を強かに打とうとしたが、その為に揚げられた彼女の骨のような腕は静かに僕の頬を撫でるだけだった。昔日の怪物のような嬌声はがらんどうの寝室に響かなかった。代わりに獣よりも下等な虫けらの蠕動のような哀切な懺悔が鬱陶しく繰り返された。

「許して、、私を許してね、K。逆らえなかった、、私は、逆らえなかった。好きで好きで仕方なかったの、貴方のことが、、芯から、、K。愛してた。きっと許してね」

「よしてくれよ。僕の身体はもう母さんに穢されたままなんだから」

僕は年を経るごとに逞しく醜くなった塔を、破壊するように激しく、嘗ての独裁者に挿し込んだ。冷えはじめた母の肉は再び燃え盛り、彼女は雌鹿の嘶きのような嬌声とも悲鳴ともいえぬ声をあげた。母はとうとうこの世界の摂理たる老境に捕縛されたのだと僕は思った。さて、どのように殺そうか?執行官はしかし根源的なある懐疑から逃れることが出来ないでいた。


 独裁者を絞首台に引き摺りあげたのは、果たして僕なのか?


 僕は初めて、何らの感興も起こさせずに居間を去った独裁者の夫を想起した。これは彼なりの復讐なのだ。それは憐れな失権者に向けられたものではなくて、生贄の同族たる僕自身に対してだった。彼は世にも美しい豊満な彫像と犠牲の役割を奪い去った僕をの夢から永遠に遠ざけて報復したのだった。計画の破綻をほかならぬ同族に導かれた僕は、冷ややかに笑いながら、ようやっと彼を父親であると認めた。いつの時代も支配を存続させるのは、愚かなる生贄同士の尽きぬことなき諍いだ。

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