第35話 聖なる牙は主の為

夜会のざわめきがようやく遠ざかり、空気が冷え込み始める頃。我は背に小さな主を乗せ、ユリウスと護衛の騎士(ガブリエルという名だったか)と共に、静かな夜道を歩いていた。


「ふぁ〜……もう、おやすみなんだね」


我の背で、主人のリリがこすった目は眠たげに半分閉じているようだ。疲れたのだろう。いつも明るく無邪気なリリの体調は、背中の温かさ、体重のかかり方一つで敏感に伝わってくる。早く暖かい部屋に戻してやりたかった。


ユリウスの「もうすぐ家に着く」という声を聞いた瞬間、周囲の空気が一変した。殺気だ。


「そこの魔法使い! 我々と共に来てもらうぞ!」


茂みから飛び出してきた五人の男。フードで顔を隠してはいるが、マントの端に見える紋章は、記憶に焼き付いている。リリを虐げ、追放したあの教会のものだ。


愚か者め。我が、自らの主人に手を出すのを許すと思うてか!


ユリウスが咄嗟に我とリリを庇うように、不埒者の前に出てきた。

騎士が剣を構える。人間どもは、ユリウスたちを囲みはしたが、標的は主人一人のようだ。


「無駄な抵抗はよせ。我々は、神聖な任務のために来た。その小娘は、神殿が迎えるべき聖女なのだからな」


一人の男が、穢れた手を我が主へと伸ばした。

ユリウスが、前に出て行こうとするが。


「下がれ、ローゼリアの王子よ」


主に手を出す輩は、我が許さない。


腹の底から、深く、我の持つ魔力の奔流を、わずかに解放した遠吠を発したのだ。「アオオオオオオオーン」。

それはただの威嚇ではない。周囲の空気が、まるで質量を持ったかのように、ずしりと重くなる。


「ひっ! な、なんだ、この魔力は……!?」


腰が抜けかけた愚かな不埒者の人間どもに、言葉を投げかける。


「リリを、神殿に連れていく? 神の御心に背く、愚かな人間どもめ……」


人間の言葉を話す我に驚き、動きが止まった一瞬。それは、彼らの命運が決した瞬間だった。


そして、周囲には、灰色の狼が魔法陣から現れて、不埒者を取り囲んだ。


我は風になった。一瞬で距離を詰め、その強靭な足で、ただ蹴り飛ばす。力の加減はしている。命は奪わない。この場を血で汚すわけにはいかないからな。だが、二度と無力な主人に手出しができぬよう、関節を外して無力化していく。


「ぐはっ!」


次々と倒れ伏す男たち。俺の主を狙う輩に、手加減など不要だ。


一通り片付けを終え、俺はゆっくりとリリの方を向いた。ユリウスと騎士は、呆然と立ち尽くしている。どうでもいい。


「リ、リル……!」


ユリウスの声は震えていた。


「安心しろ、主人は我が背で眠っておる、こやつらの処理は任せても?」

「ああ、こちらに任せてもらおう。リル殿はリリを屋敷に」

「承知した、ではな」

召喚した狼を従え、我は何もなかったかのように、リリを乗せたまま、王宮内のリリの屋敷に向かった。


「リリ様……ご無事で……!」


屋敷に着くと、屋敷の警護の騎士が安堵の声を上げる。


「ふぁ〜……リル、すごいね……。でも、もう、眠たいから、早くお家に帰ろう……」


リリは、状況を理解していない。ただ、我に身を預け、再び眠りの淵に沈んでいく。それでいい。


我はただ、主を守る。それこそが、我がこの世界に存在する理由だ。この小さな主を巡る争いは、この程度では終わらないだろう。教会の連中は、さらに強硬な手段に出てくるかもしれない。


だが、関係ない。誰であろうと、どれほどの強大な力であろうと、主に触れさせはしない。


我は聖人リリの聖なる狼。この牙と力は、すべて、我が主のためにある。

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