第9話

 翌朝、目覚ましより先にアナウンスが鳴った。


『第七戦術魔女隊および第七随伴護衛班に通達。

 本日一四〇〇時、居住区第二区中央ホールにて広報イベントを実施する。

 詳細は後刻──』


 寝ぼけた頭に「広報」という単語だけが妙にはっきり刺さる。


(戦闘でも訓練でもなく、広報、ね)


 ベッドから起き上がりながらため息をつく。

 戦場で血を流したあとに、今度は笑顔を求められる。軍というのは、そういう組織だ。


◇ ◇ ◇


「やっぱ来たか、“お披露目イベント”」


 食堂の片隅で、いつもの缶コーヒーを片手に堀井マコトが言った。

 トレーの上には、配給のパンとスープが並んでいる。


「お前のところ、前から候補に上がってたんだよ。

 第七方舟の“希望の象徴”ってやつ。子ども向け冊子にも名前出てるしな」


「聞いてないぞ、そんな話」


「聞かされないうちに決まるのが世の常だ」


 マコトはあっさり言う。


「内容は、軽い戦況説明と質疑応答、それから“魔女”との交流タイム。

 写真撮影とサイン会までは、さすがにやらないだろうけど」


「サイン会……」


 その単語が似合う連中じゃないことは、誰より俺たち自身が分かっている。


「子どもたちの前では、あんまり暗い顔すんなよ」


 マコトが缶を振りながら言う。


「“お兄ちゃんたちが守ってくれてるから安心だね”ってやつを、ある程度信じてもらわないと、この箱船も持たないんだからさ」


「分かってる」


 分かってはいる。

 だが、あの焦土と崩落エリアを見たあとで、「安心」という言葉は口の中で砂利みたいな触感になる。


「そういえば、例の説教師さん」


 マコトが声を落とした。


「一ノ瀬なんとかっていたろ。

 アイツ、最近“軍と協調路線です”って顔して、公式の場に顔出す頻度増やしてるっぽいぞ」


「広報イベントにも出るのか」


「さすがにステージには上がらないだろうけど、観客側にはいてもおかしくないな。

 ……ま、気をつけろよ。」


「縁起でもない」


 そう言って、スープを流し込んだ。


◇ ◇ ◇


 一三〇〇時。簡易ブリーフィングルーム。


「本日の任務は、あくまで“広報協力”だ。

 戦闘行動は想定されていないが、最低限の防衛装備は携行すること」


 さっきとは別の中尉が、固い顔で説明していた。

 スクリーンに映されているのは、ホールの座席配置と動線だ。


「第七戦術魔女隊は、前方ステージ上での戦況報告と質疑応答。

 その後、前列ブロックの市民代表との交流。

 第七随伴護衛班は周囲で警戒にあたりつつ、必要に応じて質問のフォローなどを行う」


「質問のフォロー?」


 思わず復唱すると、中尉がこちらを見た。


「子どもや市民から出る質問には、軍として困るものも含まれるだろう。

 その際、魔女隊のみでは適切に対処できないと判断された場合──」


 視線が、〈ルミナ〉たち四人を一度撫でてから、俺たち護衛班に戻ってくる。


「護衛班の者が間に入り、“軍としての見解”に沿う形に誘導してくれ」


「広報官じゃないんだがな、俺たちは」


 小さくこぼすと、隣の隊長が肘でつついてきた。


「愚痴るな。

 “公の場”で余計なこと言わないだけでも、護衛の仕事のうちだ」


 たしかに、その通りだ。


 視線を魔女隊のほうに移す。

 〈ルミナ〉は緊張で肩に力が入っていて、〈シロガネ〉はいつも通り無表情、〈クロガネ〉は露骨に面倒くさそうな顔をしていた。

 〈カルマ〉だけが、どこか楽しそうに笑っている。


「……なんか、文化祭前の教室みたいですね」


 ブリーフィングが終わったあと、廊下に出てからリナ・サクマが言った。


「発表会みたいですね」


「文化祭で対ネフ戦の話はしないだろ」


「ですよね」


 自分で言っておいて、苦笑いする。


「でも、ちょっとだけ、楽しみだったりもします。

 地上じゃなくて、“人”の顔がちゃんと見える場所に出るの、久しぶりなので」


 それはたしかにそうだ。

 ここしばらく、俺たちが見てきたのはネフと瓦礫と焦土ばかりだ。


「アヤネは?」


「わたしも、楽しみですよ」


 アヤネ・クジョウは迷いなく答えた。


「どんな“声”が聞こえるのか、興味ありますし」


「声?」


「ネフとは違う、“人のほうの声”。

 いっぱい浴びたら、わたしの魔法、ちょっと変わるかもしれないなーって」


 軽い調子だったが、その目はどこか鋭かった。

 〈シロガネ〉が横から口を挟む。


「あまり、変なものを背負い込もうとしないでくださいね」


「変なものってなんですか」


「……いろいろです」


 歯切れの悪い返答に、セラ・ミナヅキが苦笑した。


「まあ、市民の前でぶっちゃけ過ぎないようにしなさいよ。

 “ネフの声が〜”とか、“頭の中で〜”とか言ったら、間違いなく上が飛んでくるから」


「分かってますって。

 今日は“良い子モード”ですから」


 アヤネが、いたずらっぽくウィンクをしてみせた。

 その「良い子モード」が一番信用ならないことを、俺たちはそろそろ理解し始めている。


◇ ◇ ◇


 第二区中央ホールは、思ったより広かった。


 簡素な椅子が整然と並び、前方には低いステージが設置されている。

 壁には、軍の広報ポスターや「地上奪還計画」の簡略図。

 客席には、すでに多くの市民が集まっていた。


 小さな子どもを連れた若い夫婦。

 制服姿の学生たち。

 作業服のまま駆けつけた工員らしき男たち。

 年配の女たちのグループ。


 空気はざわめいているが、不思議と明るさはない。

 期待と不安が半分ずつ混じったようなざわめきだ。


「前の人たち、魔女隊だ……本物だって」

「ちょっと静かにしなさい」

「コードネームで呼ぶんだってよ」


 断片的な声が耳に入る。


 ステージ袖で待機しながら、俺たちは地上とは違う種類の息苦しさを感じていた。


「緊張する……」


 リナ・サクマが小声で呟く。


「戦闘のほうがまだマシかもしれません……」


「同感」


 レイ・シロサキが、珍しく完全に同意した口調で言う。


「私は別に。いつも通りでしょ」


 セラ・ミナヅキは腕を組んでいるが、足先は微妙に落ち着きなく揺れていた。


「わたしはちょっとワクワクしてます」


 アヤネ・クジョウは、やっぱり楽しそうだ。


「見てくださいよ、あの子ども。

 ああいう子たちの前で“かっこいいところ”見せるの、嫌いじゃないです」


「いいから余計なこと言わないでね、アヤネ」


「はーい」


 そんなやり取りをしているうちに、司会役の広報将校がステージ中央に立った。


「本日は、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。

 これより、“第七戦術魔女隊による戦況報告会”を始めます」


 ざわめきが少し静まる。


「まずは、日々地上で戦っている彼女たちを紹介しましょう──〈ルミナ〉、〈シロガネ〉、〈クロガネ〉、そして新たな仲間〈カルマ〉です」


 名前が呼ばれ、四人がステージに出ていく。

 客席から、小さなどよめきと拍手が起きた。


 俺たち護衛班は、その少し後ろの影の中で周囲を見張る。

 同時に、彼女たちの表情を確認する。


 〈ルミナ〉は、緊張しながらも懸命に笑顔を作っている。

 〈シロガネ〉はぎこちない会釈をし、〈クロガネ〉は最低限の礼だけをこなす。

 〈カルマ〉は、まるで舞台慣れしているアイドルみたいに手を振った。


(おい)


 思わず小さく舌打ちしそうになる。

 客席の前列の子どもたちが、それに嬉しそうに手を振り返した。


「それではまず、〈ルミナ〉から、最近の地上での活動について一言いただきましょう」


 司会に促され、リナが前に出る。

 マイクを握る手が、わずかに震えていた。


「えっと……〈ルミナ〉です。

 いつも、応援ありがとうございます」


 声は少し上ずっているが、なんとか出た。


「わたしたちは、地上を取り戻すために、毎日訓練と作戦に参加しています。

 怖いことも、つらいこともたくさんありますけど……」


 ほんの一瞬だけ、言葉が途切れた。

 その空白を、客席の目が一斉に見つめる。


「……わたしたちががんばることで、ここで暮らしているみなさんの生活が、少しでも守られるなら。

 それが、うれしいです」


 最後の一文は、彼女自身の正直な気持ちだと分かる。

 客席のあちこちから、小さな拍手が起きた。


「ありがとうございます、〈ルミナ〉」


 司会がうまくまとめ、続いて〈シロガネ〉と〈クロガネ〉が簡単な挨拶をする。

 そのあと、〈カルマ〉の番になった。


「〈カルマ〉です。

 えっと……わたしの仕事は、“ネフを縛ること”です」


 アヤネは、予想外に落ち着いた声で言った。


「戦場でいっぱい動き回るネフを、逃げないように捕まえて、みんなが倒しやすくする役目です。

 だから、わたしはあまり“かっこいいところ”は見せられないかもしれませんけど──」


 そこで、ちらりとこちらを一度だけ見る。


「そのぶん、〈ルミナ〉や〈クロガネ〉がちゃんと戦えるように、裏で支えます。

 なので……

 “誰が一番強いか”とかじゃなくて、“みんなで生きて帰ってくること”を応援してもらえたら、うれしいです」


 客席が、少しざわめいた。

 言葉の選び方が、妙に鋭かったからだ。


 司会が慌ててまとめに入る。


「ええ……はい、ありがとうございます。

 それでは続いて、戦況について簡単にご説明します──」


 その後しばらくは、用意された資料に沿った説明が続いた。

 ネフとの戦線、奪還済みエリア、今後の方針。

 数字と地図で語られる戦争は、現場の血と汗の匂いがきれいに洗い流されている。


◇ ◇ ◇


 戦況説明のあと、短い質疑応答の時間が設けられた。


「質問のある方は、挙手をお願いします」


 司会がそう言うと、すぐに小さな手が何本も上がった。

 前列の子どもたちから指名していく。


「あの、〈ルミナ〉は、こわくないですか?」


 最初の質問は、まだあどけない声だった。


「こわいですよ」


 リナ・サクマは、隠さなかった。


「こわいですけど……そのぶん、終わって戻ってきたとき、“あ、生きて帰ってこれた”って、うれしくなります。

 だから、“戻ってきたとき”のことを考えながらがんばってます」


 子どもはよく分からない、という顔をしながらも、「ありがとうございます」と律儀に頭を下げた。


 次の質問は、少年のものだった。


「ネフって、全部倒せるんですか」


 司会が一瞬固まる。

 「いい質問ですね」と言うには、重すぎる。


「それについては──」


 助け舟を出そうと、一歩前に出かけたところで、先に声がした。


「倒せます」


 セラ・ミナヅキ──〈クロガネ〉が、きっぱりと言った。


「時間はどれだけかかるか分からない。

 何人死ぬかも分からない。

 でも、倒すまでやるって決めたから、倒せます」


 シンプルで、乱暴で、誤魔化しのない答え。

 少年は、それをそのまま受け取ったようだった。


「……がんばってください」


「がんばる」


 セラはそれだけ言って、マイクを戻した。

 司会が額の汗をハンカチで拭っているのが見える。


 その後もいくつか質問が続いた。

 「どうして魔法が使えるんですか」「学校には行けてますか」「好きな食べ物はなんですか」。

 子どもらしいものもあれば、大人がさせているような質問もある。


 そして、一人。

 中段あたりから上がった手が、妙に目立った。


「はい、そちらの方」


 司会が指名すると、中年の男が立ち上がった。

 作業服ではない、地味なシャツ。

 顔は痩せていて、目の下には深い隈がある。


「質問というか……確認です」


 男はマイクを受け取りながら言った。


「“魔女”のみなさんは、志願なんですか。

 それとも、選ばれたら断れないんですか」


 空気が、わずかに張り詰めた。

 司会が「その質問は──」と割って入ろうとするのを、一歩前に出て遮る。


「お答えします」


 声を出していたのは、リナでもセラでもレイでもなく──アヤネ・クジョウだった。


「“志願”と“強制”だけで分けるのは、ちょっと難しいです」


 彼女は、柔らかい笑みを崩さないまま続ける。


「“魔法が使える”って分かったとき、“やります”って言った子もいるし、“やりたくない”って泣いた子もいると思います。

 でも、結局みんなここにいます」


 客席の何人かが息を呑んだ。

 司会が慌ててマイクに手を伸ばすが、アヤネはそれより早く言葉を重ねる。


「わたしは、“やります”って言ったほうです。

 “役に立てるならうれしい”って思ったから。

 でも、“やりたくない”って思った子の気持ちも、きっと本当です」


 そこで、一瞬だけ視線を落とした。


「だから、その両方の本音ごと、“ここにいる”ってことにされてるんだと思います」


 やりすぎだ、と直感が告げた。

 俺は素早く前に出て、マイクに手を添える。


「以上が、現場にいる者の率直な感覚です」


 間に割って入る形で、言葉を継いだ。


「ただ、制度や選抜の詳しい仕組みについては、ここにいる者では説明しきれません。

 後日、軍から正式な資料が公開されると思いますので、そちらをご参照ください」


 男は、じっとこちらを見ていた。

 その目に、怒りとも諦めともつかない色が浮かんでいる。


「……そうですか」


 短くそう言って、ゆっくりと腰を下ろした。

 その背後の数列に、一ノ瀬カナメの顔がちらりと見えた気がしたが、すぐに人波に紛れた。


 司会が、強引に締めに入る。


「そろそろお時間となりましたので、質疑応答は以上とさせていただきます。

 このあと、前列ブロックの皆様との短い交流時間を設けます──」


◇ ◇ ◇


 交流時間、と呼ばれたものは、実態としては簡易な握手会に近かった。


 前列の子どもたちが、列を作ってステージ前に並ぶ。

 〈ルミナ〉たちが一人ひとりと言葉を交わし、頭を撫で、握手を交わす。


「〈ルミナ〉! サインください!」


「えっ、サイン……あ、名前は書けないので、マークなら……」


 リナ・サクマが、配られたカードに簡単な光のマークを書いている。

 〈シロガネ〉は、もらったお守りを胸に当てて「守れるようにがんばります」と小さく微笑んでいた。

それだけで、子どもは満足そうに笑う。


「〈クロガネ〉、ネフ斬ったときの話して!」


「血なまぐさい話はダメ」


 セラ・ミナヅキは子どもたちに囲まれながらも、なんだかんだ丁寧に相手をしている。

 時々、言葉の端々が鋭くなりそうになるのを、ぎりぎりで飲み込んでいるのが分かる。


 アヤネ・クジョウの前には、少し年上の少女たちが集まっていた。


「〈カルマ〉ちゃん、かわいい!」

「髪のリボン、自分で結んでるんですか?」


「似合うように選んでもらってるだけです」


 アヤネは器用に笑顔を使い分けていた。

 その目はときどき、客席全体をゆっくりと見渡している。

 何かを測るように。


 俺たち護衛班は、その周囲で警戒しながらも、必要に応じて列を整理したり、過剰に踏み込んでくる大人の視線をやんわり遮ったりしていた。


 列の端で、一人の少女が立ち止まった。

 年の頃はアヤネと同じくらいか、少し下か。


 彼女は、列の最後まで来てから、躊躇うようにリナの前に立った。


「……どうしたの?」


 リナが目線を合わせる。


「わたし、姉があなたと同じ歳で」


 少女は、途切れ途切れに言った。


「姉は、前に“選ばれた”って言って……

 それから、帰ってこなくて……」


 そこで、言葉が詰まる。

 客席のどこかから、大人の小さな「やめなさい」という声が聞こえた。

 少女は首を振る。


「だから、聞きたくて。

 戦ってるとき、こわくないですか。

 死ぬかもしれないって、思わないんですか」


 さっきと同じ質問。

 でも、さっきよりずっと近い距離で。


「……こわいよ」


 リナ・サクマは、今度は隠さなかった。


「死ぬかもしれないって、何回も思う。

 頭の中で、“嫌だな”って声も、“それでも行かなきゃ”って声も、どっちもする」


 少女の目が揺れる。

 リナは、一瞬だけ俺のほうを見てから、続けた。


「でも、戻ってくるたびに、“また来れた”って思うんだ。

 だから、見てくれる人がいる限り、“ちゃんと見ててね”って思いながら戦ってる」


 少女が、ぽろぽろと涙をこぼした。


「……ごめんなさい、変なこと言って」


「ううん」


 リナは首を振る。


「教えてくれてありがとう。

 あなたのこと、ちゃんと覚えとくね」


 そう言って、そっと少女の頭に手を置いた。

 少女は何度も頭を下げてから、列を離れていった。


 その様子を見ていたアヤネ・クジョウが、小さく「ふーん」と呟いた。


「リナ先輩、やっぱり“良い子”ですね」


「なにそれ」


「褒めてるんですよ?」


 そう言いながらも、その目の色はどこか複雑だった。

 「良い子」として消耗されていく未来を、自分の延長線上として見ているような。


◇ ◇ ◇


 イベントが終わり、ホールの照明が落ちた。


 簡単な撤収作業を手伝ったあと、俺たちは裏通路から戻ることになった。

 市民に見送られるためじゃなく、静かに持ち場へ戻るためのルートだ。


「はー……疲れた……」


 リナ・サクマが、壁にもたれかかって息をつく。


「戦闘とは別の意味で、ぐったりです……」


「よくやってたよ」


 声をかけると、彼女は少し笑った。


「悠真さん、途中から完全に“広報官”でしたね」


「勘弁してくれ」


 思い出すだけで胃が重くなる。

 あの質問の男は、結局最後までこちらを見ていた。


「でも、良かったです」


 レイ・シロサキがぽつりと言った。


「変に綺麗事だけで終わらなくて。

 ……アヤネの言い方は、少しヒヤヒヤしましたけど」


「えー、褒めてくださいよ」


 アヤネ・クジョウがむくれる。


「ちゃんと“軍としてのライン”は守りましたよ? たぶん」


「“たぶん”をつけるな」


 セラ・ミナヅキが額を押さえた。


「にしても、“役に立てるならうれしい”って、本気で思ってんの?」


 唐突に、セラがアヤネに向き直る。


「さっき言ってたやつ」


「本気ですよ」


 アヤネはあっさり言った。


「“選ばれたから”じゃなくて、“選ばれた以上は”って感じですけど。

 せっかくこんな身体にされちゃったなら、何か残さないと損じゃないですか」


 その言い方があまりにも軽くて、逆にぞっとする。


「損得の話じゃないだろ」


 思わず口を挟んでいた。


「お前が残すものが、“傷跡”かもしれないんだぞ」


「それでも、“何も残ってない”よりは、マシかなって」


 アヤネは肩をすくめた。


「……だから、殴ってでも止めるんですよね?」


 そう言って、こちらをまっすぐ見る。


「今日の人みたいな顔、もっと増やしたくないんでしょ、護衛兵さん」


 胸の奥を狙い澄ましたような言葉だった。

 さっきの中年男の目が、頭の中に焼きついている。


「……ああ」


 短く答える。


「だから、お前も殴られたくなかったら、自分でブレーキ踏め」


「努力します」


 努力、という言葉がどこまで本気かは、まだ分からない。


 そのとき、通路の先に人影が見えた。

 白い衣。胸元の紋章。


「お疲れさまです」


 一ノ瀬カナメが、微笑みながら立っていた。


「すばらしい会でした。

 特に、〈カルマ〉の言葉は心に響きましたよ」


「……観客席にいましたか」


 警戒を隠さずに言うと、一ノ瀬は楽しそうに目を細めた。


「ええ、最後列から静かに拝見していました。

 “選ばれた以上は”──いい言葉です」


 アヤネ・クジョウが、少しだけ身構えるのが分かった。


「あなたは、誰の代表としてここにいるんですか」


 彼女が問う。

 今度は、いつもの軽さが少し薄かった。


「神? ネフ? それとも、ただの“壊れた人たち”?」


 一ノ瀬は、少しだけ首を傾げる。


「私は、誰の代表でもありませんよ。

 ただ、“壊れるかもしれない人たち”の話し相手でいられればと思っているだけです」


 その目が、一瞬だけ俺のほうを見た。


「今日も、“誰のせいにもできないこと”がたくさんあったでしょう?」


 昨夜のメッセージと同じ言葉。


「でも──」


 一ノ瀬は、穏やかな声で続ける。


「誰のせいにもできないことを、“自分だけのせいだ”と信じ込んでしまうのは、とても危険です。

 そういうときに、少しだけ“誰かのせいにしていいですよ”と告げる役の人間がいたって、いいじゃないですか」


「宗教というのは、そうやって入り込むものですか」


 レイ・シロサキが、静かに言った。

 珍しく、感情の色を滲ませた声だった。


「“責任の肩代わり”を売り物にするのは、公正とは言えません」


「公正さを求めるなら、戦争なんて最初から成り立ちませんよ」


 一ノ瀬は軽く笑った。


「あなた方魔女も、護衛兵の皆さんも、“自分で選んだように見せかけられた運命”の上で踊らされている。

 だったらせめて、その踊り場から降りる階段くらいは用意しておきたいんです」


「階段の先が穴じゃないといいですけどね」


 セラ・ミナヅキが吐き捨てる。


「ご心配なく。

 穴かどうかは、降りてみるまで分かりませんから」


「その言い方が一番危ないんだよ」


 思わず遮った。


「悪いが、今は“話し相手”を探してる時間はない。

 俺たちはやることがある」


「ええ、もちろん」


 一ノ瀬は、あっさり身を引いた。


「ただ──」


 すれ違いざま、小さく囁く。


「もし、あなたが“殴ってでも止めたい誰か”を止めきれなかったとき。

 そのときは、私のところに来なさい。

 “それは誰のせいか”一緒に考えましょう」


 返事はしなかった。

 しなかったが、その言葉だけは耳に残った。


◇ ◇ ◇


 兵舎に戻る頃には、イベントの喧騒も、イグジス派の白い衣も、視界から消えていた。


 ただ、胸の中には、いくつもの顔が重なっていた。

 ステージの前で手を振っていた子どもたち。

 「姉」の話をした少女。

 「志願か強制か」と問いかけた男。

 そして、それに答えようとした彼女たち。


 ベッドに横になり、天井を見上げる。


(俺は、誰のために殴るんだろうな)


 ネフのためでも、軍のためでもない。

 魔女たちのためであり、たぶん、自分自身のためでもある。


 誰のせいにもしないで済ませるには、あまりにも世界が歪みすぎている。

 それでも、せめて目の前の四人くらいは、言い訳じゃなく「守った」と言い切れるように──。


 そんなことを考えているうちに、まぶたが重くなっていった。


 焦土の空と、地下の白い灯り。

 そのあいだで笑う子どもたちと、ステージの上の四つの影。


 それらが、ゆっくりと溶け合っていく。


 答えはまだ出ない。

 だが、「どこで線を越えるか」を決めるための材料だけは、確実に増え続けているのだと感じながら、俺は浅い眠りに落ちていった。


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