5.男子生徒3

 僕は夏期補習を毎日受講することにしていた。これは、勉学に励もうという気持ちよりも、僕の知らないところで周囲が先に行ってしまうのが怖いという心情の割合が大きい。

 終業式の翌週月曜日からまた登校するというのは、普段より一本遅い電車を利用する点を除けば一学期と何も変わらないじゃないかと思ったが、普段の半分程度しか埋まっていない教室や、外から運動部の掛け声がする中での授業に非日常感を感じる。午前中だけで帰れるということも普段と異なる大きな点である。お弁当を持ってくる必要がない。その気になれば駅近くで外食して帰ったっていい。中学までは登下校中の買い食いや寄り道は禁止されていたから、日の高いうちに制服のままで街を歩くという行為には胸が躍った。

 一週間、受講予定だった科目を全て受けてみると、補習のほとんどが、これまでに習った範囲から出題されている大学入試の過去問題の解説だった。聞き覚えのない大学から、誰もが知っているような大学の問題まで様々で、結構一年生の知識だけでも解ける問題があるものなのだなと感心したものである。

 月曜日、現代文の教師が「一年生は日に日に受講者が減っていくから、みんななるべく最後まで出席してくれると嬉しい」と言っていたが、今年はどうなるのだろう。確かにどの科目も出席をとっているわけでもないので、一人二人減ったところで気付かないかもしれない。段々と欠席者が出てくるのはわからないでもない。ただ、遠く高い壁だと思っていた大学入試の問題を解くことに対し、ある種の快感を覚えていた僕は、現状では最後まで受けるつもりであった。


 夏休み期間、上級生は受験や部活に集中、とのことで一年生のみが図書当番を分担されていた。一学期中、僕の当番は隔週金曜日だったが、夏休み期間は毎週金曜日となる。委員会担当の教師は、日程が合わなければ生徒同士で当番の日を交代してもいいと言っていたが、僕の相方はどうするつもりだろうか。一応、三年生にも補習がないお盆の一週間については学校そのものが閉鎖されるとのことで、当番はないという。

 担当日は13時からの三時間、図書室で本の貸し借り手続きをしなければならない。とはいっても、ただでさえ普段から利用者のいない図書室である。長期休み中の当番など仕事はあってないようなものだ。当番のある金曜日も補習を受けるために午前中から登校する予定だった僕にとって、この仕事は大した負担にならない。


 夏休みに入って最初の金曜日、予定通り正午ちょうどに終了した生物の補習の片づけをして、冷房が効いたままの教室内で昼食をとる。夏休み中のお昼は家にあるものを好きに食べて、という母親の意向のもと、これまでの四日間は自宅で昼食をとっていたが、今日は登校時に駅のコンビニで買ってきていた。丸いチャーハンのおにぎりにレタスとチーズのサンドイッチ、飲み物は無糖の紅茶。コンビニで何も考えずに選ぶといつもこの組み合わせになる。

 昨日までの補習でも教室に残って昼食をとる生徒はちらほらといた。都度教師たちは「最後の人は冷房を消して帰ってください」と告げてから教室を出ていくので、別に問題ないことだ。いつも残っているあの集団は同じ部活の仲間なのだろう。一昨日あたりに、午後からの練習、といった発言が聞こえてきた。その他にも何人か教室に残っている。教室内全員の居残り理由はわからないが、僕は彼らにそっと仲間入りをするだけだ。図書当番が始まるまでの一時間を、ひっそりとここで過ごすだけである。誰も僕を気にしない。

 当番が始まる五分前、僕は席を立った。科目が少ない分普段より幾分か軽いリュックサックを背負い、廊下にでる。教室内にはまだ数人が残って会話をしていたので、冷房を消す必要はない。扉を開けると夏の熱気が感じられた。何もしていなくても汗ばんできそうだ。


 図書室には、冷房の効いた空気が充満していた。ひょっとすると冷房がかかっていないかもしれないと思っていたため、その点については安堵する。夏休み期間中は図書委員のいる三時間だけが図書室を利用できる時間であるから、まだ扉の鍵すら開いていない可能性もあると思っていたが、杞憂だったようだ。しかし、司書の先生も含めて誰もいる気配はないのに、誰が鍵を開けたのか。

 考えても仕方のないことは気にしないでおく。いつも通り貸し出しカウンターの中に入ると、今まで見たことのない段ボールが数個あって席に着くのに少々邪魔だと感じた。一つ一つが腕を回しても手が届かないくらいの大きさの段ボールである。その一つ、椅子のちょうど後方にあった箱を壁際に押しやり、椅子を引く。リュックサックを椅子の脇に置き、持ってきていた文庫本を取り出して、腰を下ろした。あとは三時間、ここで静かに過ごせばいいだけである。

 ふと思い出してスマートフォンを確認した。13時01分。僕の相方からの連絡は来ていなかった。連絡先は交換していないけれど、クラス全員が入っているグループチャットを経由すれば僕に連絡することはできるはずだ。それがなく、今ここに彼女がいないということは、つまりはそういうことなのだろう。こうなるだろうと思っていたので特段何も思わない。

 改めて文庫本に意識を向けようとした際に、普段はない大きめの薄ピンク色をした付箋がカウンターに貼ってあることに気が付いた。

“図書委員へ。新本の登録、ブッカーかけをお願いします。”

 書き置きであった。しかも僕に関係のあるものだ。図書委員担当教師の名前が書いてある。その内容に、カウンター内、座っている椅子のすぐ脇の段ボールたちに目がいく。段ボールはテープで封をされたままで、作業に取り掛かった様子がないことから、今日運び込まれたものかもしれない、と思う。ということはこの教師が図書室の開け閉めもしているのか、などと数分前の疑問が解決したと同時に、新たな問題が生じた。

 これ全部やるのか。

 先ほど椅子を引くときに箱を一つ押し動かしたが、見た目相応の重みを感じた。それぞれの箱に数冊ずつ入っているだけということはないのだろう。

 一度だけ書き置きで指示された作業をしたことがある。司書の先生に教わりながら、透明のカバーをかけ、貸出用のバーコードや管理番号を本に装着していった。自分の装填した本たちがこの先何年もここに並ぶことを考えると慎重になり、数冊だけの作業に結構な時間をかけたことを思い出す。しかも、その時は相方の女子生徒もいた。

 それが段ボール複数個分。何も今日だけで完了させる必要はないのだろうが、終わりの見えない量の仕事を前にして途方に暮れかけたそのとのとき、図書室の扉が静かな音を立てて開いた。

 扉を開けた生徒は図書室内を見渡した後、こちらに目線を向けた。

「あ、もう来てるね。」

 早川実里だった。おつかれさま、という言葉と共に僕の名前が呼ばれた。状況は読めないが、反射で会釈をする。

「今日、たくさん新規入荷の本があるからって先生に頼まれちゃって。」

 彼女はそう言って司書室の鍵を掲げて見せた。そうだ、本の装填に必要なものは全部、貸出カウンターを入った先の扉の奥、司書室にあるのだ。これまで一度しか入ったことがなかったために忘れていた。

 早川実里はカウンター内に入ってくなり、本が入っているのであろう段ボールを見て「いやぁ、これは多いね」などと一人うなる。

「もう一人の子は?」

「ああ、急用とかで。」

 有名人からの突然の問いに、とっさにごまかしてしまった。ここで「僕に仕事を押し付けて、たぶん遊んでます」とは言えない。今まではそれで不都合もなかったのだし。

「早速やっちゃおっか。この量だと早めにやった方がいいもんね。」

 そう言いながら早川実里は司書室の扉に鍵を差し込んでいる。


 図書室を利用する生徒が来ても分かるように司書室の扉と小窓は開けておいた。この小窓は司書の先生がいるときに開いていて、図書委員がいないときはここを通して貸し出しのやり取りが行われる。僕は使ったことがないが、この内側にいると一般の生徒は入れない場所にいるのだという特別感を覚える。

 ひとまず複数ある段ボールのうちの一つを二人で引きずって司書室の中に入れる。こんなに重いものをどうやって図書室まで運んだのか。台車を使っても一苦労だろうに。僕一人では持ち上げることすら難しそうだ。箱の中には重さに見合うだけの本が積められていた。

 本の装填について、初めに早川実里から手本を見せてもらい、二人で作業を開始する。手際の良さを尋ねると、一年生のころからこうして作業をしていて慣れているとのことだ。

 本にシートを被せながら、早川実里は話題を振ってくれる。存外話し好きなタイプなのかとも思ったが、僕が慎重にバーコードの位置を調整している瞬間には話しかけてこないところから考えるにそういう訳でもなさそうだ。会話をしたことがない相手と沈黙したまま数時間作業するは気まずい空気になりかねない、との判断だろうか。僕としては煩わしいと感じることはなかった。また、その会話の中で、この大量の本の出処もわかった。今年図書室の本を一新しようとOBOG達に寄付を持ちかけた結果らしい。一応これでも同じ本ははじいているそうだが、卒業生たちの好意の手前、断り切れずにこうなったようだ。想定以上の作業量を前に、担当教師は早川実里に声をかけた訳だ。

 それにしても、卒業生たちの愛校精神がすごい。僕が卒業する時期には、そこまでこの高校に愛着を持てているのか疑問である。

 しかしなるほど、噂通りの先輩だ。こんなほぼ初対面の後輩にも壁を感じさせない。話題の振り方がうまいのか聞き上手なのか、おそらく両方なのであろう。普段教室でほとんど会話をしない僕ですら、自分のコミュニケーション能力が上がったと錯覚するほどだ。更に、僕が一冊終わらせる頃に三冊目を終えようとするほどの手際の良さである。

 僕が段ボールから取り出した本を三冊ほど貸し出し可能な状態にしたくらいのとき、そろそろこちらからも話題を、と早川実里が図書室に入ってきたときの話を持ち出す。

「そういえば、早川先輩って、僕の名前知ってたんですね。」

 あの時は会釈することしか出来なかったが、今思えば目立つタイプではない僕の名前を覚えているのは意外だった。

「もちろん。委員会でいつも顔見ていたしね。っていっても、自信なかったから来る前に当番表でカンニングしちゃったけど。」

 校内一の有名人に知ってもらえているのは、何だか感動する。本当は全く知らなかったのだとしても、事前に確認するあたり、早川実里が校内で頼られる存在であることの一片を見た気がした。

「それに、君も私の名前、知ってくれてるじゃん」

 そりゃあ、有名ですから。早川実里を知らない生徒を探す方が大変だと思う。僕の名前を言えない人はクラスメイトの中にもいそうだけれども。

 また、自分が目立つ立場であることに無自覚だという訳ではないのだろうが、それを鼻にかけるような様子も伺えないのにも、早川実里に悪い印象がわかない。

「そういえば、あの先輩と仲良かったんですね」

 口が滑るとはこのことかもしれないなと思う。僕のコミュニケーション能力が低いせいでなく、人との会話が単純に久しぶりであるのが原因だと思いたい。気が付けば僕は、先日のことを思い出して、あの屋上の上にいた人と早川実里との関係を聞いていた。投身未遂なんて大きな事件も、二つ下の僕にはほとんど噂が回ってくることはなく、ただ早川実里が連れ戻したことくらいしか知らなかった。また、学校内では、彼女のことは早川実里に任せておけばよいという空気と共に、第三者が触れてはならない話題に昇華されていた。

「え、どうして?」

 しまった、と思うと同時に、返答が来る。何も気にしていないような様子に、安心する。

「この前、駅で二人がいるのを見かけたので。」

「えぇ、気付かないところで人に見られてるのちょっと恥ずかしいな。私変なことしてなかったよね?」

「変なことって何ですか。普通でしたけど。」

 早川実里は、パフェの時かクレープの時か……とつぶやいている。悩むほど一緒に出掛けているのか。

「というか、あの子のことも知っているんだね。」

 あの時は名前も知らない人であった先輩は、今ではある種早川実里と同程度に有名人である。

「あの日、見てたので。」

「そっか。」

「あの日、早川先輩もあそこにいましたよね?」

 気まずげに肯定する早川先輩の横顔に、今でも時折思い出す疑問について、少し欲が出た。

「あの時、屋上を見上げながら何か言いませんでした?」

「んー、地上からってことだよね。結構後から来たから声かけるとかはできなかったけど。」

「――――ずるい、とかって言いませんでしたか。」

 あの日は屋上に向いていた目が、先ほどまでは手元の本に向けられていた目線が、こちらを向く。目線が合う。時間にすれば三秒にも満たないであろうその時間が、やけに長く感じる。

 失敗した。調子に乗りすぎた。これは出していい話題ではなかった。

 早川先輩はほんの少し目を細めた後、

「あ、君、近くにいた?」

手元の本に目線を戻し、

「なんだろう、あんまり覚えてないけど、無自覚にまずい、とか言っちゃってたかもね。なんせ同級生が飛び降りちゃうかもしれない状況だったわけだし。多分その聞き間違えじゃないかな。」

先ほどまでと変わらない調子で、そう答えた。

「もうこの話は終わりね。あんまり部外者の私たちが話していい話題でもないし。」

 飛び降りを止め、本人と仲の良い早川実里は部外者ではないのではないか、とは思ったが、そう言われてしまえばこれ以上こちらから突っ込むことはできなくなってしまった。


 その後は図書委員担当の教師が帰りの許しを出しに来るまで何もなかった。貸出手続きも0回。初めと変わらず、早川実里に振られた話題を僕が返す時間。テストの出来や好きな作家などの話。相も変わらず、理想の先輩であった。

 段ボールの中にはまだ多くの本が残っていた。

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