第12話

 ずっと胸の奥に引っかかっていた。


 風花が、自分の家を潰したと認めたあの日から。

 あの一言が、心の中で何度も何度も反芻されて、眠るたびに胸を焼いた。


 僕はこの屋敷で衣食住を与えられている。

 食事も、布団も、屋根も、すべて風花の家のもの。

 何一つ自分の力で得たものはなく、ただ命じられるまま働き、呼ばれれば従う。


本当に『ポチ』そのものだ。


 惨めだった。

 それ以上の言葉は見つからない。

 


 悔しくて、たまらない。


 だからこそ、自分の力で一歩を踏み出したかった。

 たとえ小さな一歩でも、この支配から抜け出すきっかけになるはずだ。


 その思いを込めて、僕は掌に一枚のチラシを握りしめていた。

 新聞配達のアルバイト募集。薄い紙切れが、今の僕には唯一の武器だった。



 掃除を終えて廊下を歩いていたとき、鼓動が一気に速くなった。

 今言わなきゃ、また逃げる。

 自分で自分を追い込むように、足を止める。


「……風花」


 声は掠れていた。

 呼ばれた風花は振り返る。制服の襟元はきちんと整えられ、背筋も伸びている。

 その佇まいは隙がなく――瞳は冷たかった。


「なに? もう掃除は済んでるでしょう」


 澄んだ声に冷ややかさが滲む。

 喉が乾ききって、言葉が出てこない。

 それでも、ここで引いたらまた同じだ。


 僕は震える手でチラシを差し出した。


「……これ、俺、やってみたいんだ」



 風花はチラシを受け取ろうともしなかった。

 ただ一瞥し、すぐに僕を見返す。


「……はぁ?」


 低く、短く漏れた声。

 次の瞬間、口元がゆるみ、冷笑が浮かんだ。


「バイト? あなたが?」


 その一言で、背中に冷たい汗が流れた。

 でも、視線は逸らさなかった。


「……ああ。新聞配達。朝は早いけど……できると思う」


 必死に言葉をつなげる。説得ではなく、ただ心の奥にあるものを吐き出すように。




 風花は一歩こちらへ歩み寄り、僕とチラシを交互に見下ろした。

 


そして、怪訝な顔で


「新聞配達ね。……陸が、夜明け前に自転車をこいで? ふふっ……」


 声が笑いに変わる。肩を揺らして、隠そうともしない嘲笑だった。


「そんなの、できるわけないじゃない。三日で倒れるに決まってるじゃない」


 その言葉は、心臓を鷲掴みにされるように痛かった。

 それでも、俺は小さく首を振る。


「……それでも、やってみたいんだ」


 震えていた。けれど、その言葉だけは揺るがなかった。




 風花の笑いが止まった。

 冷たい瞳が、じっと僕を射抜く。数秒の沈黙。

 やがて、彼女はふっと目を細め、鼻で笑った。


「本気みたいね。……まあ、好きにすればいいわ」


「……いいのか?」


「ええ。どうせ長くは続かないんだから。許可なんて必要なかったんじゃない?」


 吐き捨てるような声音。

 

 風花は背を向けると、そのまま廊下を歩き去っていった。




 残された僕は、手の中のチラシをぐしゃりと握りしめた。

 悔しかった。見下され、笑われ、惨めだと突きつけられた。

 けれど同時に、胸の奥で小さな熱が確かに灯っていた。


 これが最初の一歩だ。

 どれだけ惨めに笑われても、やってみせる。


 震える手の感触を噛みしめながら、僕は心の奥でそう誓った。

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