第5話 覇猪

覇猪が目の前にいた。鼻息を荒くして、咆哮を夜空に響かせた。しまった。油断していた。

恐らく、体格からして秋の食料を集めていた母猪だろう。目が血走り、牙を立てて突進してくる。わずかのところで身を躱した。一瞬の隙に、僕はさばきを取った。この距離では弓は使えない。母猪の荒い鼻息が響く。覇猪も必死なのだ。殺るか、殺られるか、大切なものを守れるか、守れないか。それは母猪も僕も同じだった。常闇の帳を覇猪の鼻息が破る。もう一度突進してくるつもりだ。僕は籠手を前方に差し出しながら、右手のさばきの柄をぎゅっと握りしめた。

「ブルオオオンンッ。」母猪が突進してくる。

僕は左手の籠手を前に差し出し、母猪の鼻先をかすめる。その刹那、右手のさばきを首元に差し込んだ。赤い鮮血が散る。

「グゥ、ガァーッ。フゴーッ、フゴーッ、」

荒い呼吸と共に、血まみれの母猪がこちらを睨んでいる。その瞳に迷いはなく、こちらを仕留めることだけを考えているのが僕にも分かった。この母猪は己の命の使い方を理解していた。相打ちでこの人間を仕留める。決死の突進が僕を襲う。

「ブルヒヒィンッ、ブゴーゥツ!」

大きな咆哮と同時に、僕の正中線をめがけて突進してくる。これでは避けられない。左腕の籠手を正面に差し出した。それと同時にさばきを右の首の頸動脈に向けた。左手首は折れるかもしれないが、やるしかなかった。ここで母猪の攻撃を受けて、且つ、致命傷を与えるには捨て身の攻撃しかない。母猪の牙が左腕に食い込んだ。体が吹き飛ばされると同時に、右手に構えたさばきが母猪の首の肉に食い込むのを感じた。僕はそのまま吹き飛ばされ、母猪も斜めに走りながら、やがて荒い呼吸が少しずつ悲鳴に変わり、木の前に倒れた。

 僕は左腕を負傷し、背中や首も痛めているのが分かった。だが目の前の覇猪にとどめを刺して、肉にする必要があった。痛む身体を起こし、母猪の下にさばきをもって近づいた。母猪は荒い呼吸をしながら、血まみれで横たわっている。しかし、その瞳は闘争を続けていた。さばきを構える僕の右手を睨むように見開いて、決して僕なんかに屈しないという意思が表れていた。僕は右側の頸動脈にさばきを当て、一気に引き裂いた。大量の血が溢れるとともに、母猪からは断末魔の叫びが聞こえた。

 僕は母猪が動かなくなるのを確認してから、後ろ脚を縄に結び、カニラの木に渡し掛け、母猪の重たい身体を、木の枝を利用して、梃子の原理で木に吊るした。母猪からは血が滴り、生物から物へ移行した肉塊が虚ろな目をしてぶら下がっていた。僕は残った体力で、吊るした覇猪を固定し、網をかけた。こうすれば鳥につつかれることもなく、僕たちの村に食料として覇猪がもたらされるだろう。僕の成人の儀式は終わった。左手は折れているだろうか。重たい痛みと共に蘇ってくるのは、母猪の瞳だ。命のやり取り。守るべき存在。命の全てを掛けた突進だった。どんなに鍛えていても避けられなかった。子を想う母の気持ちか、獣の本能か。それは分からないけど、僕の中の恐怖を呼び覚ました。あれは父さんに小剣で腕を切られた時だ。あの時の父さんの瞳も深く冷たく、静かな瞳をしているのを思い出した。母猪の最期の瞳もそうだ。あれは覚悟を決めた者の瞳なのだ。誰かを守るために、誰かを傷つけなくてはならない。他者の命を奪う決意が僕にはまだ足りなかったのだ。また、それに気づくと同時に自分が成人となる覚悟も自覚した。この儀式の後には、僕も守られる立場から守る立場になるのだということが身に染みた。母猪の決死の突進。その決断に迷いはなく、ひとえに僕の命を絶やすことだけを目的をしていた。覚悟という言葉の重みを全体重に乗せて僕に突進したのだ。大切な何かを守るための覚悟だ。僕はその熱量と、潔さ、合理的な判断力から生み出される、自身の命を捨てる行為に、胸の動悸が止まらなかった。


 負傷した左腕を庇いながら、村に戻ると、人々に囲まれた。村の一同は覇猪を一人で狩れたか訪ねてくる。それに返答すると。大きな歓声が上がった。

「村にまた一人戦士が生まれた!戦士ドミニク!戦士ドミニク!」

村はお祭り騒ぎになった。僕が覇猪のありかを示すと、真っ先に村の衆が駆けていった。

僕が本当に覇猪を狩れたか確かめるのだ。僕はそれよりも左腕が痛くて、治療を求めていた。

飛び出してきたユウミがそれに気づき、早急に手当てが必要と判断した。

「ドミニク、左腕は?折れているの?添え木は必要?」

さすがの判断に感心しながらも、

「多分折れているか、ヒビが入っているかな。」

そう返答すると僕の左腕を添え木と包帯でぐるぐる巻きにした。

「氷が用意してあるわ。家の中に入って。」

そう急かされると、左腕を押さえて家の中に入った。中には母さんがいて、

「うまくやったみたいね。さすがは父さんの息子ね。」

と母さんが瞳を潤ませて声を掛けた、僕は、

「泉の女神のおかげかな。」

と考えてもしないことを言ったが、母さんは感極まり、

「父さんも力を貸してくれたのね。」

と泣き崩れた。本当は母さんに寄り添いたかったけど、ユウミが自分の部屋に引きずり込んだ。

「出血はあまりないけど、骨に当たっているわね。どう?曲げられる?」

ユウミは僕の手首を曲げる。僕は顔をしかめた。

「やっぱり折れているじゃないの。当分は冷やしておくことね。」

そう言うと氷嚢を当てて、包帯で巻いた。村はお祭り騒ぎで、

「戦士ドミニク!父ユウトの子供!覇猪に屈しない強さを持った神の子!」

老人も子供も、笛を鳴らし、手を叩いて騒いでいる。なんか他人事のように扱われているけど、僕のことを祝福してくれているのだ。少し恥ずかしい思いがした。

「夕方酒盛りが始まるかもしれないわ。少し休みなさい。」

ユウミが言葉をかけてくれた。この勢いだとそうなるだろう。僕は甘えて、

「ちょっと横になっておくよ。」

「それがいいわ。村の人々は私がどうにかしておくから。ゆっくり傷を癒しなさい。」

ユウミの気遣いがありがたかった。左手を庇いながら横になると、外の喧騒が聞こえる。

「村に勇者が現れた!女神の加護に包まれた!勇者ドミニク!勇者ドミニク!」

祭りはヒートアップしている。しばらくこの調子が続くだろうと思ったときに、僕は目を閉じ左腕の感覚に意識を集めた。

 熱く痛む左腕の感覚の中に、父さんの声と母猪の瞳が重なった。

「お前には血を流す勇気があるか。」

「お前には自分を犠牲にするつもりはあるか。」

「未来のために自分を贄にする覚悟はあるか。」

数々の問いが僕の朦朧とした意識の上を霞んでいく。父さんの声が聞こえる。

「覚悟は出来たか。ドミニク。それは他者を殺すのではない。自分を殺すのだ。自分を殺すことほど辛いことはない。その運命をお前は背負えるのか?」

 血まみれの小剣を持った父さんの髭面が浮かんで、微睡み、夢うつつの意識に、ユウミの声で叩き起こされた。

「ドミニク!いつまで寝ているの!表に出なさい!」

そう言われて表に出ると、僕が狩った覇猪が担ぎ出されていた。僕が狩った覇猪は冬ごもりする前の母猪で、体重も十分だった。村の衆は棒に覇猪の足を結い、泉の前まで持って行った。泉の女神にも報告するのだ。

「この森の全てを司る女神様、今日村の若者が覇猪を仕留め、我々は命を繋いでいける。それがどんなに奇跡的な連鎖か、感じるとともに深く敬意を表します。益々のご加護を頂戴できますよう、祈り奉ります。」

 泉の女神に覇猪の鬣を飾ると、さらに一段と歓声が上がった。これから仕留めた覇猪で豪華な食事が振舞われる。仕留めた覇猪の大きさは、村の衆を満腹にさせるのに十分であろう。

「宴だ。酒だ。」

一人の老人が声にすると、一斉に村の衆が動いた。酒と食事を用意するようだ。

「未来ある若者に栄光を、我々村人に祝福を!」

村人たちは乾杯し、覇猪を囲んだ、それは村の女衆が半身を丸焼きにしたり、煮込んだり、炒め物にしたものだ。村の衆はそれを貪り、酒を呑んだ。

「ドミニクの栄光に乾杯!」

「新たなる勇者に乾杯!」

村人は活気づき、宴を楽しんだ。ある者は歌い、踊り、僕の成人を村一丸で祝ってくれた。

これには母さんも、

「立派な男になったのねえ。ドミニク。」

と感慨深い表情をしていた。ユウミは祭りの準備で忙しいらしく、目にもとまらぬ速さで、食事を作っていた。

 僕は今回の成人の儀式が上手くいったことと、期待に応えられたという安堵で一息ついていた。村の衆からは、酒の勧めと、料理の勧めで大変だったけど、嬉しかった。

「呑め!呑め!呑め!食え!食え!食え!」

と村の衆が急かしてくるのを、受け止め、呑んで、食った。

後でユウミと母さんに叱られるだろうと分かっていたものの、もてなしを受けないわけにはいかなかった。僕はいっぱい食って、呑んだ。村の衆も笑顔を浮かべていた。

 そんな楽しい夜は過ぎていき、朝を迎えるころに予期せぬ客人が訪れたのだった。

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