第20.5話 後日談 ガス缶
新穂高の駐車場は、夜の闇に包まれると水の匂いが濃くなる。
自販機の下に溜まった水はまだぬるく、缶コーヒーの甘さは喉の奥で長く残る。
俺たちは言葉を使い過ぎない。ヤギはストレッチをしながら、笑うだけ笑う。
オオカミは無理をしない、をそのまま顔にしている。「別線で降りた。時間はかかったが、正解だった」
スズメは紙コップを両手で包み、聞き役に徹している。いつもの役割分担だ。このメンツでは。
踵の痛みは、やわらいでいた。
残ったのガス缶をザックの外ポケットから取り出して、指で軽く弾く。
薄い金属音が鳴る。次の山行の切符みたいな音だ。
使わなかったものは、持ち帰れば選択肢になる。使わなくてもいい。保険の価値は、だいたいそれだ。
「で、灯りの話は?」
スズメが言う。昨夜、東の谷底で二つの灯りを見た。俺は見なかった、と言えば、それで終わる。
「見たと言えば見た。見てないと言えば見てない」
ヤギが笑って肩をすくめる。
「ジャンダルムの上で、一度だけ二つになって、すぐ戻った。とソロから聞いた。目のせいかもしれない」
「風のせいかもしれない」
オオカミが言う。
「ログは?」とスズメ。
俺は端末を出し、登山アプリで昨夜の軌跡を開く。稜線は細く、点は規則的だ。
ひとつだけ、細い直線が混じっている。歩いていない角度で、ほんの数十メートル。
指で拡大すると、時間の表示が二分間、重なっていた。
「誤記録だろう」
言って、自分でうなずく。
「うん、そうだろうね」
スズメもあっさり頷いて、紙コップに顔を戻した。話は、それで終わる。
装備の話に移る。
ヤギは足が鈍った理由を、笑わずに話した。「靴紐、緩めすぎた。浮くと痛みが増える。あれは早めに調整したり、処置するべきだった」
「交代の合図は良かった」
俺は言う。「先頭はペースメーカー。後続はタイムキーパーやルート確認。あとは分岐したメンバーとの合流を考えて通信することもできた」
オオカミは「無理はしない」をもう一度だけ言った。「じつは下山路は崩落していて遭難者の気分で薮を掻き分けて降りた」。そして、黙って缶のプルタブを折って缶の中に落とした。
スズメはメモを取らない。代わりに、同じ質問を別の順番で聞き直す。
俺たちは同じ答えを別の語で返す。反復に意味がある。
山の話は、だいたいそうやって定着する。
やがて、人の影が短くなる。
バスのエンジン音が遠くに響く。
「私は上高地側へまわる。明神に寄って、近況を一本だけ書く」
「タイトルは?」
「足音は二つ。たまに三つ」
ヤギが笑う。俺も笑う。オオカミも、少しだけ目を細めた。
帰路は早いほうがいい。
各自の車に戻り、荷を積み、靴を脱ぐ。踵が軽くなる。
未使用のガス缶は、車の助手席に置いた。
次の山行で使えばいい。使わなくてもいい。
どちらでも、道は増える。
帰り道、峠のトンネルに入る直前で、SNSでメッセージを受信した。
スズメから写真が一枚、送られてきた。新穂高ロープウェイから見た、山の影。拡大すると、山頂に立つ登山客が見えるという。
谷の合間に、点が一つ、写っている。自然物ではない。
レンズの汚れかもしれない。
通知を閉じる。
走行音が連続体になり、やがて帰路の景色に溶けていった。
家に着く。靴を干し、ザックを空にして、ガス缶を棚へ。
缶は軽い。中身は重い。
指で弾くと、金属の音が一度だけ鳴る。
少し間を置いて、アパートのどこかから、同じ高さの音が遅れて返った。
嫁のせいかもしれない。
そう決める。
決めれば、湯を沸かせる。
翌朝、カップに湯を注ぎ、コーヒーを飲む。
昨日、見送った一杯だ。
甘さはない。湯気は細い。
飲み切ったあとに、呼吸がひとつ深くなる。
それで十分だ。
次に登る山域の地図を机の上に広げる。
振り返ってみて、わからないことがあると気づいた。
あの夜、北から来たソロは、稜線上に灯りを二つ見て、
俺たちから「そうかもしれない」という返事を持ち帰った。
理由は要らない。山では、とりわけ。
昨日はそう思っていた。
帰宅してから、西穂高の北西に2人の遺体が発見されたというニュースを見たが、どのような関係があるのかは、今となっては知る余地はない。彼が見たのが私たちだったのか、発見された遺体だったのか、あるいはなぜ聞いたのか、ということも。
足音は二つ。たまに三つ。という言葉がリフレインする。
俺はそれを数えない。
数えてしまうと、次の山までの時間が長くなる。
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