第9話 カッパ橋
森を抜けると、梓川の流れが広がった。朝に出発したときと同じ光景のはずだ。だが、空の色も川の輝きも、ほんの少し濁って見える。
その川の上に、河童橋が架かっている。けれど僕らは橋を渡らない。遊歩道は川の東側を通り、橋を横目にして進んでいく。
観光客が橋の上に群れていた。浴衣姿の若者、カップル、家族連れ。カメラを構える姿は朝と同じ角度だが、笑い声はどれも妙に揃っていた。速度を早めた録音を重ねて聞いているようで、調子が不自然に合いすぎている。
「……多すぎないか、人」ウサギが小声で言った。
確かにそうだった。夕暮れが近いはずなのに、まだ観光客が大勢残っている。
さらに目を凝らすと、観光客の中に登山者が混ざっていた。汗を拭う者、ザックを下ろして靴紐を緩める者、疲れ切った表情で地面に腰を下ろす者。そこに混じって、軽装の観光客が笑顔で記念写真を撮っている。
登山と観光が入り混じり、まるで境界線のない空気が広がっていた。
「泊まるのかな、あの人たち」カメラが呟いた。
だが違和感は拭えなかった。最終のバス時刻は近い。ここにいる人々の多くは、もう帰路につくはずだ。それなのに、誰も時刻を気にしていない。
オヤカタは眉をひそめた。「この時間にあの数……少しおかしいな」
スズメが立ち止まり、小さく鳴いた。
「いやぁーー……」
声は川風に攫われ、橋の下に吸い込まれていった。水面に広がった波紋は、流れに逆らって漂ったまま消えなかった。
通り過ぎる人々の顔を見て、僕は寒気を覚えた。観光客の何人かは明らかに山歩きに不慣れな身なりで、軽い靴のまま大きな岩に腰掛けていた。顔には笑みがあるが、目の奥には不自然な空白があった。
まるで彼らは、ここに留まる理由を知らないまま笑っているようだった。
僕らの足音が砂利道に響いた。ドン、ドン、ドン――五つ。僕らは四人のはずなのに。
「聞こえた?」カメラが囁いた。
ウサギは返事をしなかった。ただ時計を見て、唇を噛んだ。
橋を背に、バスターミナルの喧噪が近づいてきた。土産物屋の看板、売店のシャッター、案内板の文字。朝と同じはずの景色だ。
だが看板の文字はわずかに歪み、人々の顔は一瞬ごとに別人に入れ替わるように揺れて見えた。
夕暮れの上高地は、安心と不安が重なり合う奇妙な場所だった。
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