第4話 K1

鞍部からの登りは、想像以上に厳しかった。道は細く、泥に削られ、踏み込むたびに靴が沈む。木の根が梯子のように並び、体を引き上げなければ進めない箇所が増えていった。


「まだピークじゃないのか」

ウサギが吐き捨てるように言った。時計を見て眉をひそめる。その背中は焦りを隠さず、岩の陰に消えたり現れたりした。


スズメは、もう鳴きっぱなしだった。

「いやぁーー、いやぁーー、もう無理だよ!」

ピーピーと高い声が森に響く。だが、不思議なことに、その声は山に吸い込まれるのではなく、斜面全体に染み込んでいくようだった。まるで土そのものが共鳴しているみたいに。


やがて木々が途切れ、斜面が大きく空に開いた。正面にK1が立ちはだかっていた。

岩と草付きの混じる斜面は、ほとんど垂直に見える。足場は脆く、ところどころ崩れ落ちている。固定されたロープが一本、白く光りながらぶら下がっていた。


「これ、登れるのか……?」

カメラが声を落とした。レンズを向けるが、ファインダー越しに見ると画面が揺れ、ピントが合わない。


オヤカタがゆっくりと言った。

「ロープを頼れ。足は一つずつ確かめろ。焦るな」


ウサギは先に取りついた。ロープを握り、軽い身のこなしで岩を登る。だが途中で石が一つ外れ、谷に転がり落ちる音がした。その響きは異様に長く尾を引き、下から聞くと、まるで谷底に何かが潜んでいて、石を受け止め咀嚼したかのように感じられた。


スズメは立ち尽くしていた。足がすくみ、肩を震わせている。

「いやぁーー、こんなの無理!」

その声は今度、斜面に反響して奇妙に歪んだ。ピーピーではなく、低く伸びる音に変わって戻ってきた。僕は鳥肌が立った。


「大丈夫だ、俺が後ろにいる」

僕は声をかけた。スズメは泣きそうな顔をしながらも、一歩踏み出した。ロープを掴む。手のひらに冷たい感触が伝わった。だがそれは単なる麻縄の感触ではなかった。ロープは、生き物のように微かに脈打っていた。


「握ってろ。絶対に離すな」

オヤカタの声が、奇妙に遠くから聞こえた。


一歩、二歩、三歩。スズメの靴が岩を探り、なんとか登っていく。泣き声は相変わらずだったが、斜面の上へ伸びていくたび、その声は別の言葉に聞こえた。意味のない音列だが、山自体が口を開いているように思えた。


僕らも続いて取りついた。岩はざらつき、手が削れる。息が上がる。背後を振り返ると、樹林の切れ間から上高地の谷が見えた。だが、谷の形が妙に歪んでいた。地図で知っているはずの形ではない。谷底がわずかに鼓動しているように見えた。


ウサギが叫んだ。「早く来い!」

彼はすでに上部の岩棚に立ち、汗を拭っていた。


僕は最後の力を振り絞ってよじ登った。足を置いた瞬間、岩がかすかに沈んだ。まるで何かが中にいて、重さを受け止めたようだった。


全員が岩棚に立った。振り返ると、K1の斜面はただの岩と草の壁にしか見えなかった。ロープも、脈打つような感触も、幻だったのかもしれない。


スズメは膝を抱えて震えていた。

「もう帰ろうよ……」

その声は、風にかき消された。だが、風が一瞬だけ言葉を繰り返した気がした。僕には、はっきりと「帰れ」と聞こえた。

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