1章

第1話 ライターを忘れた。

 大学の喫煙所はいつも混んでいる。


 世間は嫌煙一辺倒だし、事実として喫煙者は年々減少している。しかし大学生ってのは逆張りが大好きなのだろうか。そして、それは私も例外じゃない。15分間の休み時間の間にわざわざ遠い喫煙所に向かっているのだから。


 道に落ちた枯葉を蹴飛ばしながら歩く。足裏の感触と音が気持ちいいからちょっと頬が緩む。授業に向かう学生とすれ違ったから、顔を引き締める。何してんだ私。


 ぼやけたガラスに囲まれた喫煙所の中に人影は見えない。やっぱりガラガラだ。遠慮なく扉をスライドさせると、ちょうど正面の壁に寄りかかりながらスマホをいじっていた人と目が合ってしまった。しかも、目つきが鋭い。あのお姉さんも私と同じく1人で吸いたくてここにきて、今の視線は邪魔者に向けた威嚇なのかもしれない。うわ、気まずい。目を逸らして鞄に手を突っ込む。誰もいないから気楽に吸えると思っていたからここに来たのに、2人きりは逆に気まずくて、後悔。


 しかも不運なことに、いつもの場所にタバコが入っていない。鞄の中で手をガサガサ動かしていると、足音が聞こえてきた。1人になれる、と思って手の動きを緩めると、声をかけられた。

 

「あの、すみません」

 喫煙者のくせに、結構澄んだ綺麗な声。顔を上げると、声が、喉に詰まった。

 意外と――かわいい。

 可愛いって言うか、綺麗だ。

「火、貸してもらえませんか?」

「は、はわ」

 頭の中の言葉と口から出る音が一致しなさすぎたことはわかってる。わかってるから、心臓がバクバクと煩くなる。

「え?なんて?」

 お姉さんが髪を耳に引っかける。青っぽく染められたサラサラの髪に隠された複数個のピアスの輝きが、私の目を固まらせる。そして、彼女は動けなくなった私に、近づく。

「あ、あ、はい、火、うん……じゃなくて、ちょっと待って」

 見た目で人を判断するのは悪いことだってわかるけど、本能には逆らえなくて、唇が震える。大学生にもなってたかがピアス如きで怖がるなんて情けないが、手が震える。

 鞄からライターを取り出して、そのまま手渡せばよかったのに私はなぜか、彼女のタバコに火をつけた。

 いや、なぜか、じゃない。お姉さんがタバコを咥えて待っていたせいだ。それをされたらこれをするしかないと言うか。


 艶々に唇に挟まったタバコに火をつけて、すぐに顔を背けた。元気な「ありがとうございます!」に返す言葉がなかなか出なかったから諦める。そして、ようやく発見したタバコから一本取り出して、咥えてさっと火をつける。そして、お姉さんを視界から追い出す。


 煙を吸って、吐く。だけど広がるのはいつもの匂いじゃなかった。甘いような、苦いような。きっとお姉さんの煙だ。どんなタバコを吸っているのか気になったけど、声をかける勇気はない。喫煙所に2人きりだし、火を貸した。会話があるほうが自然なような気もするけど、捻り出した会話というのはいつだって不自然なものだから、代わりに煙を吐き出すことにした。


 この空間から早く出て行きたすぎて、煙が辛くなってきた。まだ少し残っているけど、灰皿に投げ捨てた。

 火事になるのが怖いから一応振り返ったら、お姉さんと目が合ってしまって足が止まる。彼女の目から光線が飛び出しているのか、気のせいかわからないがしばらく動けなくて、その間に彼女は軽く手を振ってきた。細い指に嵌められたいくつかの指輪が光って、くぎ付けになって……手を振り返すことはできず、会釈を返して喫煙所を後にした。


 これでよかったのだろうか。

 いや、そんな疑問に意味はない。喫煙所で、ライター貸して、タバコ吸って、出てきただけだ。


 だけど胸の辺りに小石が詰まったような違和感があるのは多分、あのお姉さんと話しておけばよかったって後悔だ。でもそれってきっと無駄な後悔だ。お姉さんは笑顔だったけど、愛想がいいだけだ。話しかけられたくはなかったんだと思う。そもそも、会話は1人じゃ生まれない。お姉さんこそ、話しかけるべきだった。でもとにかく。私はもうあの喫煙所に行くことはないと思う。もし次にあの人と会ったら、余計に気まずいからだ。

 せっかくいい場所見つけたのに、と唇から漏れたため息はちょっと冷たい風に紛れてどっか行った。

 


 

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