第30話:私はお嬢さまが心配です

 すぐに良くなる。そう言っていたのに、ハロルドの風邪は長引いていた。もう一週間近く経つ。

 村の人たちも心配していて、朝の挨拶のたびに「ロックウェルさん、まだ寝てるのか」「こんなに顔を出さないのは初めてだ」なんて囁いた。


 そのせいか、畑は静かで、泥の匂いと草の香りはいつも以上に豊かに感じられた。

 アメリアは逆立ちをせずに、地味な作業をしていた。相棒が病欠なのもあるし、復旧が第一だったから。

 土をならして、水を与える。逆立ちしなくても、土はやわらかく、温かい。なのに、なんだか息が詰まる。

 ハロルドがいないだけで、空気が違う気がした。喫煙者がいないから、空気が澄んでいるだけかもしれない。逆にありがとう。


 休憩の鐘が鳴った。

 アメリアは一人、畑の隅に腰を下ろした。土の上は、少しひんやりしている。空を見上げれば、雲がゆっくり流れていた。

 もし、ハロルドがこのまま戻ってこなかったら?

 そんな想像をしてみる。死ぬとか、そういう大げさな話じゃなくても。どこか別の土地に行くとか、急に仕事を辞めるとか、そういう可能性なら、いくらでもある。

 ずっと一緒にいる、なんて保証はどこにもない。


(……だったら、どうするのよ、私)


 胸の奥がざわついた。

 姿が見えないだけで、こんなに落ち着かないなんて。


(あーもう、ややこしい!)


 アメリアは両手で顔を覆った。

 もし、恋を自覚していなかったら。恋ではなく単なる信頼とか友情とかにしていたなら。いなくなったとき、こんなふうに寂しくはならないだろう。

 恋なんて、やっぱり面倒なだけかもしれない。恋にうんざりで飛び出したのは正しかったのかもしれない。あのときの自分は、逆に正しかったのかもしれない。

 恋をしないと得られない幸せはある。だけど、逆に恋することで出会う不幸だってある。まあ、逆に、その不幸に出会うこと自体が幸せって言い方もできるし、それは単なる言い聞かせかもしれない。


 結論なんて出ない。そう結論づけて、空を見上げた。

 青空は見えず、薄い雲が流れていく。


「お嬢さま」


 背後から声がした。

 畑仕事をしているのに、なぜかいつも泥が顔についていない。服も綺麗。一体どんな生き方をしてきたら、こんな綺麗な人間になれるのか。

カノンの髪が、風でふわりと揺れた。


「一人でいると、悪いことを考えますよ」

「次はどんな嫌がらせしてやろうか、へへ」


 にやけるアメリアを見て、カノンはため息。


「強がってばかりだと、本当に見失いますよ」

「本当って何よ。教えてほしいわ」

「ハロルドさん……大丈夫でしょうか」

「ちょっと、やめて。意味深な言い方すんの。風邪で寝込んでんでしょ? バカなのよ、体力を過信して長引かせるなんて。ただの風邪ごときで。はあー、もう、嫌だ嫌だ。ああはなりたくないわ、絶対」


「でも永遠なんてないですよね。明日死ぬかもしれない、その明日が来ないだけ。そういうものじゃありません?」

「大げさすぎる。極端すぎる。そんな小難しいこよを考えずに生きていくものなのよ。人間は」

「見て見ぬふりをして?」

「そう」


 アメリアの声は、少しだけ乾いていた。

 カノンはその横顔を見つめ、短くうなずいた。

 それから、ほんの一瞬だけ視線を落とす。


「私はお嬢さまが心配です」


 いつもの調子のまま、淡々と。

 けれど、その声はどこか遠くから届くようだった。

 アメリアが口を開く前に、カノンは歩き出す。


 ――心配って、何様だ。と思うけど、カノンはたぶん、私を大事に思ってくれているのだろう。同じように、私はハロルドを心配している。ということは、やっぱりハロルドを大事に思っている。


 もしもいなくなったら。

 その問いに対する答えは、ない。そんな状況を想像もしたくない。想像すると現実になりそうで怖いから。そして一度怖くなると、その怖さは際限がなくて、どこまでも拡大してしまう。


 だから嫌なのだ。


 アメリアは立ち上がった。

 足元の芽が、風に揺れる。

 小さな命たちは、確かにそこにある。その命は、とても愛おしくて、寂しいものだ。


 アメリアは走る。

 畑を抜け、泥道を蹴り、一直線に。あの、くたびれた家へ向かって。

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