Ch.2:過去の断片と深まる絆

Sect.5:蘇る記憶と失われた音楽

 楽譜に隠されたメッセージと自分が口ずさんだメロディーの衝撃が鈴の心を深く揺さぶっていた。

 彼女の脳裏に土の匂いと微かに湿った風の感触が蘇る。

 懐かしいメロディーが何年も抑え込んできた感情の扉を叩いた。それは一瞬の出来事だったが鈴を深く動揺させた。

「私…失礼します!」

 鈴は息をのんだまま、震える声でそう告げると聡志の心配そうな視線から逃げるように店のドアへと駆け出した。

 その日、時の雫の扉は彼女の心の扉のように固く閉ざされた。


​ 数日経っても彼女の頭の中には聡志の顔と楽譜の裏に書かれた文字そしてあの懐かしいメロディーが何度も繰り返し蘇っては消えていく。

 まるで抑え込んでいた過去の蓋がこじ開けられたかのようだった。

 彼女の心はトラウマに怯え、再び無能という名の鎧の中に閉じこもろうとしていた。

 会社では以前にも増して完璧な無能さを演じ、誰とも深く関わらないように振る舞った。

 そうしていればきっと安全な日常に戻れるはずだと信じていた。

 スマートフォンには一度だけ聡志からメッセージが届いていた。

 内容はごく短く「体調はいかがですか?」という気遣いの言葉。

 鈴は通知のプレビューをそっと指でなぞるだけで本文を開くことはできなかった。

 彼の優しさは今の彼女にとって何年もかけて築いた安全な日常の壁を優しく、しかし確実に崩そうとする脅威に他ならなかった。

 彼の存在を断ち切らなければ過去の深い闇に引きずり込まれる。

 そう自分に言い聞かせ、彼女は通知をそっとスワイプで消した。

 そんなある日の昼下がり、オフィスでパソコンに向かっていると受付の女性が慌てた様子でやってきた。

「溝口さん、瀬尾さんって方がいらっしゃってますが」

 その言葉にフロアのあちこちから「え、溝口さんが?」という小さな囁き声が聞こえてくる。

 いつも誰とも目を合わせず、定時になるとサッと帰っていく無能の代名詞のような彼女に“来客があったことが信じられない”そんなどよめきだった。

 受付の女性はそんな周囲の空気に気付かないようにただ、鈴を促した。

 ​鈴は一瞬、心臓が止まるかと思った。受付に促されるままエントランスへ向かうとそこにはスーツ姿の聡志が立っていた。

 彼はいつもの店主の制服ではなく少し着慣れない様子で手にはビジネスバッグを提げていた。

​ 聡志は受付の女性に会釈をすると騒がしいフロアに視線を向け静かにエレベーターホールへと歩き始めた。

 まるで「こっちに来てくれ」と目で語りかけているかのようだった。鈴は彼の意図を察し、彼の後を追ってエレベーターホールの隅まで進んだ。

​ 人通りの少ないその場所でようやく二人は向かい合う。

​「あの、先日は、失礼しました…」

​ 鈴がそう口にすると、聡志は慌てたように首を振った。

​「いえ、こちらこそ、あの夜は…」

​ 二人の間に気まずい沈黙が流れる。

 聡志は居心地が悪そうに視線を彷徨わせた後、意を決したように口を開いた。

​「あの…楽譜の件で、少しご報告にと思いまして。…というか、その、ですね…もしよかったら、一緒に食事でもどうかな………、例えば焼肉……、とか」

​ 普段の落ち着いた完璧な彼からは想像もつかない、しどろもどろな誘い文句だった。

 完璧に豆を挽き、丁寧にドリップする。あのベテランの喫茶店のマスターとはまるで別人だ。

 彼の顔はわずかに赤らみ、その視線は鈴の顔を見つめることができずにいた。

 その不器用な姿に鈴の心は固く閉ざしていた扉をゆっくりと開き始めた。

 聡志に案内されて向かった先は鈴がいつも一人で訪れる静かな聖域とはまったく違う、活気のある焼肉店だった。

 熱気と煙が充満し、肉が焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 テーブル席は客の話し声で賑わい、どこか高揚した空気が満ちていた。

 慣れない環境に鈴は少しだけ身をこわばらせ、焼ける肉から立ち上る熱に汗が徐々に滲むのを感じた。

「賑やかな方がいいかなと思ったけど、普段行っているお店とは真反対だったかな」

 聡志はそう言って、申し訳なさそうに眉を下げた。

 完璧な笑顔はどこにもなく、そこにあったのはただ鈴の反応を気にする一人の男性の姿だった。彼の人間味あふれる表情に鈴の心は温かくなっていく。

 二人は、煙が立ち上る網を囲んで向かい合う。聡志は慣れた手つきでトングを手に取ると鈴に「何かお好みは?」と尋ねた。鈴は「何でも」とだけ答えたが聡志は彼女の好みを探るようにカルビ、ロース、ハラミと、様々な部位を少しずつ網に乗せていく。

​ 焼ける肉の香り、炎の熱、そして二人の間に流れる穏やかな空気。

 謎解きから解放された二人は初めてお互いの個人的な話に花を咲かせた。

​「そういえば瀬尾さんって、どんな音楽がお好きなんですか?」

​ 鈴が尋ねると聡志は少し考えるような素振りを見せた。

​「そうですね…昔は、ジャズばかり聴いていました。あとは…」

​ 彼の言葉が途切れ、ふと遠い目をする。何かを思い出すようなその表情に鈴は彼が抱える過去の深さを感じた。

​「…弟が好きだった曲をよく聴いていました。最近はお店のBGMを探すばかりであまり個人的には聴けていませんが」

​「そうでしたか。瀬尾さんが私に“メロディーが失われたこと”を話された時、瀬尾さんはまるで“秘密の重荷を分かち合っている”かのような視線を送っていました。謎の核心は失われたメロディーではなくご兄弟の間に横たわるあの重い沈黙にあったのですね。」

​「ええ。音楽が大好きな明るい弟でした」

​ 鈴は彼の“弟が好きだった曲”という言葉に店で見た楽譜の裏に書かれていた“悠真”という文字とあの失われたメロディーの響きを重ね合わせた。

 それは二人の間に楽譜の謎以上の何らかの避けがたい運命が横たわっていることの証のように感じられた。

​ 聡志はそう言うと網の上で完璧に焼きあがった肉を鈴の皿に乗せた。

 その手つきはまるで彼が大切にしていた何かをそっと差し出しているかのようだった。

​ 聡志はその後も鈴の趣味や仕事の話を熱心に尋ねた。鈴は普段会社では見せない肉を完璧に焼き上げる姿を見せながら、趣味の欄に「一人焼肉」と書くしかなかった過去を少しだけ話した。

​「すごいな、溝口さんは。本当に丁寧だ。でも何故、完璧にこなせるのに会社ではどうして…」

​ 聡志の言葉は鈴が何年もかけて作り上げてきた“無能”という鎧をまた優しく叩く。彼女の無能ではない才能を彼は当たり前のように肯定し、ありのままの彼女を受け入れてくれた。その言葉に鈴は心の安らぎを感じた。

​「あの、差し出がましいんですけど…瀬尾さんって、おいくつですか?」

​ 鈴は話題を変えたくて、ふと思い立った事を尋ねてみた。

​ 聡志は一瞬、きょとんとした顔をした後、少し照れくさそうに笑った。

​「僕ですか?…もうすぐ、三十になります。溝口さんより、いくつか年上かな」

​「え、私、二十六歳です」

 ​鈴が驚いて答えると聡志は「やっぱり」と小さく呟いた。彼の言葉の端々から彼が抱える過去の深さを感じた。

​「それじゃ、四つも年上じゃないですか。どおりで落ち着いていらっしゃるわけだ」

​ そう言って、鈴はわざとらしくからかった。すると聡志は少し困ったように眉を下げたがすぐに優しい笑顔に戻った。

 その笑顔は完璧なマスターの仮面を脱いだ一人の男性の姿だった。

 ​食事が終盤に差し掛かり、網の上の肉が残り少なくなった頃、鈴は静かに呟いた。

​「私…、昔のこと、ぼんやりとしか覚えてなくて…特に大事なことほど、なんだか、霞んでいて…」

​ その言葉を聞いた瞬間、聡志の顔から笑顔が消えた。

 グラスを持つ手がわずかに震え、彼の瞳の奥に深い悲しみの影がよぎる。

 それは鈴の言葉が彼の心の奥底に眠る大切な記憶の断片を呼び起こしたからだ。

 鈴はその変化に気づき、彼もまた自分と同じように何かを抱えていることを悟った。

 二人は店内の喧騒と熱気から一転し、静かな夜風が吹く外へと出た。

 歩道の端に並んで立つ二人の間に心地よい沈黙が流れる。

 聡志はビジネスバッグからスマートフォンを取り出すとわずかに震える手でそれを操作し画面を鈴に向けた。

「…もしよかったら、連絡先を…」

 鈴は何も言わずにスマートフォンを受け取ると慣れた手つきで自分の連絡先を入力した。

 彼女が端末を返そうとすると聡志はそれを遮るようにもう一度、不安げに鈴の顔を覗き込んだ。

「…また、店に来てくれますか?」

 その言葉は完璧なマスターの仮面を脱ぎ捨てた一人の男性の素直な不安が滲んでいた。

 鈴は彼の瞳の奥に幼い子供のような寂しさを見つけ、胸が締め付けられるのを感じた。

「ええ、必ず」

 彼女が静かにしかし確かな声でそう答えると聡志の顔に安堵の表情が広がり、ぎこちない笑顔を浮かべた。

「それから…また、一緒に行きませんか?今度は私の行きつけの焼肉屋さんに」

 聡志は少し照れくさそうにそう付け加えた。

 彼の言葉は、二人の間に楽譜の謎を超える新たな絆が生まれた証だった。

 二人は互いの秘密に触れ、より深い関係へと歩み始めていた。 

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