第4話 Lost Proof
――光が弾け、忍陽の身体が再構成される。
目を開けると、足元には石畳。
肺に空気が入って行くのを感じられる。全身を血が巡っているのを感じられる。
頭上には抜けるような青空。
「すっごい! 生きてるのを実感できる。なにこれ、ほんとうにゲームの中なの?」
思わず感嘆の声が漏れた。
次に忍陽が感じたのは、人いきれの熱気だった。
ざわめき、歓声、笑い声。
耳を塞いでも追い払えないだろうほどの喧騒が押し寄せる。
数百、いや千を超えるアバターたちが光の柱から現れ、四方八方へと駆け出していく。
「すごい人混みだ」
まるで初詣の神社に迷い込んだようだ―― と感じた。
これほどまでに人で溢れかえっているのに、肩が触れ合うことはない。それでも熱気と声の渦に胸が締めつけられる。
人の群れに呑まれるような圧迫感。
「……これ、全部人間なんだ」
ここに立つ一人一人が、どこかの現実から接続している。
その事実が背筋を重くさせた。
足を踏み出しかけて―― 止まる。
「頼子との待ち合わせがあるんだった」
キョロキョロと周囲を見回す。頼子との待ち合わせは、街の東に位置する大鳥居の前。と、メッセージを受け取っていた。
しかし、どちらが東か西かもわからない。
闇雲に動けば、すぐに方角を見失ってしまいそうだと感じた。
どこへ向かえばいいのかも分からない状況で、下手に動いて迷子になるくらいなら――
「ならば…… 上から見ればいい」
忍陽はペロリと舌を出す。顔を上げた先に、塔が映った。
木と石を組み合わせた四角い建造物は、煙突のように見える。
ぐるりと見渡し点在する似た塔の中から、目の前のひときわ高いそれを目標に定めた。
「よし!」
忍陽は唾をのみ、地を蹴った。
靴底が石を弾き返し、身体が想像通りに応えた。
壁を蹴り、指先で軒を掴むと、ひょいっと側の建物の屋根に上がった。
身体が軽い。
現実よりもずっと、理想に近い動きをしているように感じた。
「おい、見ろよ」
「えー? あんなことできるの?」
「慣れてくればできるだろうけど、すぐにできるのはなかなかだぞ?」
と言った声を置き去りにして、軽やかに屋根上を駆けて塔を目指す。風を切る感覚が胸を震わせた。
「すごい! 本当にここで生きているみたい。すごい。本当にすごい」
と、やや語彙力を失った感動を口にした。手足を動かす感覚どころか、筋肉を動かしている感覚まで、自分の知っているものそのままだった。
それは忍陽が、忍足陽凪が体操選手として一番の絶頂期だった時と、まるで遜色ないほど。
「違う、それ以上かも」
あっという間に塔の前までやってくると、それを見上げ、躊躇なく登り始めた。
忍足陽凪は幼い頃から近所の体操クラブで体操をしていた。中学に入ってからは、全日本の強化選手にも選ばれたこともあった。
煙突かと思っていた塔は、一メートル四方の正方形をしていて、等間隔で僅かなひさしが付いていた。五重の塔をコンパクトにした感じのデザインをしていた。
忍陽は、ひさしに指をかけて体を引き上げた。
指先に伝わる石のざらつきが、体操器具に撒かれた滑り止めの粉を思い出させる。
足裏で幅を確かめると、平均台とほとんど同じ。
軽やかに身体を持ち上げる感覚が、昔の自分を呼び戻すと、ふと過去を思い出していた。
「……あの頃も、父さんも母さんも何も言わなかったな」
幼い頃から体操を続けてきた自分を、両親はいつも穏やかに見守ってくれた。
父は寡黙で、母は明るい性格。どちらも競技に口を出すことはなく、送り迎えや弁当の準備に徹してくれていた。
クラブの仲間とは、決して仲が悪かったわけではない。ギスギスした空気などなく、練習の合間に笑い合える日々だった。
けれど中学に入り、成長期が始まった頃から少しずつ歯車が狂い始める。急に変化する身体のバランスが、演技の乱れとなって現れた。
それまで当然のようにメンバーに選ばれていた団体戦の名簿から、自分の名前が外れているのを見た日のことは忘れられない。
掲示板に張り出された表を前に、胸の奥がひゅっと冷たくなった。全身の体温が下がった感覚は今でも鮮明に焼き付いている。
横で一緒に覗き込んだ仲間は、気まずそうに笑って「仕方ないよ」と言った。誰も責めてはいない。むしろ励ましてくれている。――なのに、その声が優しいほど、耳の奥で反響して痛かった。自分だけが透明な壁の向こうに立たされているようで、居場所だけがなくなった気がした。
帰り道、靴底がアスファルトを叩く音だけがやけに大きく響き、街の雑踏すら遠くに感じられた。
夜空を見上げて、涙を堪えたのが、つい昨日のことのよう。
それからは、集中力を欠くようになって、個人戦でも思うように演技をまとめられない日々が続いた。着地で大きくバランスを崩すたびに、観客のざわめきが心に突き刺さる感覚。誰かに非難されたわけではない。ただ、自分だけが取り残されていく気持ちが日に日に濃くなっていった。
それでも両親は成績が落ちても責めることもなかった。むしろ、いつだって「陽凪の好きにしなさい。楽しんでる陽凪を見るのが一番だ」と心から言ってくれているのを感じた。
「優しいけど…… それが逆につらくもあった」
優しさで包まれているはずなのに、時折その言葉が胸に重くのしかかった。
「好きにしなさい」と言われるたび、自分が期待に応えられていないような気がして、余計に悔しかったのだ。
両親は何も間違っていない。むしろ正しい。でもその正しさが、陽凪にとっては逃げ道を許されるようで、応援されているのに、応えられない自分。
そんな思いが強くなる一方だった。
正しいことを言われているのに、どうしても素直に受け止められなかった。
体操をやめたい―― そう切り出す前の夜。
布団の中で天井をにらみ続け、気づけば朝になっていた。
打ち明ければ、両親はなにも言わずにそれを尊重してくれるだろう。
だが、言葉にすれば全てが終わってしまう気がして、声が喉に貼りついたまま出なかった。
両親ががっかりするかもしれない、そんな不安が胸を締めつけて離れなかった。
でも、陽凪は気づいていた。
「誰も悪くないのに。責めてたのは、ずっと自分だったんだ」
結局、両親は最後まで「続けてもいいし、やめてもいい」と言ってくれたし、コーチも「戻ってきたくなったらいつでも来い」と笑ってくれた。
誰一人、陽凪を拒絶した人はいなかった。
だからこそ余計に、悔しかった。
――応えられなかったのは、自分じゃないか。
責めていたのはいつだって自分自身だった。誰にも押しのけられていないのに、自分だけ仲間から外れてしまったように感じた。
「居場所がないって、そういうことなんだ」
初めて気づいた。
体操をやめても、身体を動かすことだけはやめられなかった。
河川敷を走り、近所の公園の鉄棒にぶら下がって、自分に課題を出す。誰にも見せることはない、ひとりきりの挑戦を繰り返した。自分自身の心に打ち勝つための挑戦。
そんな時間を過ごしながらも、心の奥ではずっと「自分の居場所」を探していたのかもしれない。
そして今―― このフルダイブの世界で、かつての身体を超えるような軽さを得ている。
塔のひさしに手を掛けると、失った感覚が蘇る。
壁を蹴る感覚も、屋根を駆け抜ける感覚も、筋肉が正確に応える心地よさも、すべてが理想に近い。
塔を登るたびに、過去の後悔が薄れていく。
筋肉が正確に応え、身体が理想通りに動く。
もう一度、自分はここで“できる”のだと、身体が雄弁に語っていた。
「やっと…… 取り戻せた。ううん、それ以上かもしれない」
陽凪は息を弾ませながらも笑っていた。
今のこの感覚、この高揚は彼女にとって何よりの証明だった。
塔のひさしに手を掛け身体を引き上げる。その度に、過去の悔しさが一枚ずつ剥がれ落ちていくようだった。
「……失った居場所を探してた私に、この世界はどう答えてくれるんだろう」
風が頬を打ち、髪をなびかせる。心臓の鼓動が、かつて大会前に高鳴ったものと同じリズムで響く。
あの頃は身体に裏切られたけれど、今は違う。筋肉が正確に応え、理想通りに動いてくれる。
一段登るごとに、未来への扉を押し開けている気がした。
塔の上から見下ろす景色は、ただの街並みではなかった。
――これから始まる新しい物語の、舞台そのものに見えた。
そうして忍陽は、塔のてっぺんに辿り着いた。
喧騒が足元に遠のき、耳に届くのは風の唸りだけになった。
眼下には古き日本風の建物が幾重にも連なり、瓦屋根の波が石畳を縁取っていた。
朱塗りの鳥居、並ぶ石灯籠。
和の趣に混じって、街全体に点在する塔群が異様なリズムを刻んでいる。
(……あった。あれだ)
街の端に一際大きく鎮座する大鳥居。
頼子と約束した待ち合わせ場所が、はっきりと視認できた。
胸をなでおろした瞬間――
耳に、女性の澄んだ声が届いた。
【チュートリアルクエスト開始…… クリアを確認。特殊イベント開始条件を満たしました】
空気がぴたりと張りつめた。
風が止み、世界が一呼吸遅れた。
視界の端に水面のような揺らぎ。そこから光の波紋が広がっていく。
「え? なに?」
困惑して辺りを見回す忍陽。塔の下には、数人のプレイヤーがいた。
忍陽は息をのんだ。
ただ街を見回すつもりだった。
続いて。
【籠の声は深淵より。が開始されます】
新たなアナウンスが耳に届く。
あの日、名簿に自分の名前はなかった。
でもそれは、自分が立てなかった場所の証であって、決して存在を消されたわけじゃない。
そう気づいた。
今ここで響いた声は、世界そのものが挑戦者として自分を受け入れた証だ。
心臓が跳ねる。これは単なるゲームの演出じゃない―― ここから私は、新たな挑戦を始める。
しかし、忍陽は知らない。
――それが、特別な始まりになることは。
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