第6話 反逆と混沌

 ダルネスイズムが世界を覆い尽くし、人々がめんどくさい」という感情の奴隷と化す中、コウの心には、沸々とした違和感が渦巻いていた。彼は、AIに管理され、最適化された無味乾燥な日常の中で、「生きていて無力なのは、ダルネスイズムなのだ」と、はっきりと悟っていた。


 それは、思考も、感情も、そして行動も、すべてが他者に委ねられた、まるで生ける屍のような状態への強い拒絶だった。


 彼の行動の原点には、亡き母が握ってくれた、不揃いだが温かいおにぎりの記憶があった。あの手触り、あの塩加減、そして何より、自分を想って手間暇をかけてくれた「人の手」の温かさ。


 それは単なる懐かしさではない。


 「手間暇をかけること」


 「不完全であることの愛おしさ」


 「人との繋がり」


——ダルネス社会が効率の名のもとに切り捨てた、「失われた人間性の核心」がそこにはあった。コウは、AIによる完璧な手触りや、手間暇をかけることによる真の美徳を、改めて世に提言しようとしていたのだ。


 コウは、ダルネス社会への生理的な嫌悪感を抱いていた。無表情で流動食をストローで啜る人々、AIによって完璧に管理され、感情の起伏すら許されない都市の無機質さ。


 それは彼にとって、吐き気を催すほどの歪んだ光景だった。人間が本来持っているはずの「五感」や「自発性」が奪われ、感情の波すら立たない平坦な世界は、ただただ不気味だった。


 コウの「仕掛け」は、単なるおにぎり配布や落書きに留まらなかった。彼は、デジタルでは決して再現できない、アナログならではの「手触り感」と「五感」に訴えかける多角的な反撃を計画し、実行に移していった。


 AIによる自動清掃が施された街の壁に、突如としてチョークで描かれた素朴な落書きが現れる。子供が描いたような太陽や花。それはすぐにAI清掃ロボットに消されるが、毎日別の場所に現れる。完璧な都市景観に、あえて残された不完全な「痕跡」。


 ナオの配信画面の端にも、その一瞬のノイズが映り込むが、マナはそれを「不要な情報負荷」として処理しようとする。しかし、なぜか完全に消し去ることができない。


 コウは、ダルネス集会が開かれる公園や、自動化された無人コンビニの前に、突如として現れた。彼の手に乗せられた竹籠には、海苔も形も不揃いだが、湯気を立てる温かい手作りのおにぎり。


 彼は何も言わず、ただ静かに、その温かい塊を差し出す。人々は最初、ストローなしで食べる固形物に戸惑い、また「めんどくさい」と顔をしかめた。その初期の戸惑いと抵抗は、ダルネスに慣れきった彼らの本能的な反応だった。


 しかし、警戒しながらも一口食べると、米の粒の食感、塩気とほんのりとした甘み、そして何より「人の手」の温かさが、脳の奥底に眠っていた感覚を揺り起こす。



「これ、なんか懐かしい…」




「昔、こんな味があったな…」



 中には目頭を押さえる者も現れた。彼らの硬直した表情に、微かな「人間らしい」感情の波紋が広がっていく。コウのおにぎり配布は、SNSで奇妙な「現象」として拡散される。


「#非効率の味」「#手動おにぎり」といったハッシュタグと共に、人々が戸惑いながらも涙する姿がアップロードされ、ダルネス化に慣れきった社会に、かすかな「ざわつき」をもたらした。


 この「ざわつき」の拡大は、単なる好奇心ではなく、無意識下に押し込められていた「感情の芽生え」や「疑問の萌芽」だった。


 中には、自宅に帰ってから理由もなく涙が止まらなくなる者や、これまで当たり前だった流動食に急に言いようのない違和感を覚える者も現れ始めた。


 嗅覚と聴覚への介入も試みられた。街角には、マナの監視を潜り抜け、昔ながらの薪で焼く焼き芋の香ばしい匂いが、風に乗って拡散された。その甘く焦げ付く香りは、合成された香料とは全く異なる、懐かしくて生々しい記憶を呼び覚ました。


 また、AIが自動生成する均一なBGMに紛れ、時にはストリートミュージシャンによる生演奏が始まった。不完全で、感情に満ちた音色は、人々の聴覚に「ノイズ」として作用しながらも、深く心に響いた。


 触覚の呼び覚ましのためには、手編みのゲリラアートが用いられた。無機質なコンクリートの柱や金属の手すりに、鮮やかな色の毛糸で編まれたカバーが施された。触れると伝わる温かさと、編み目の不均一さ。


 また、AIが自動生成する完璧な広告看板の隣には、手書きの、少し歪んだ文字で書かれたメッセージが貼られた。


「効率だけが全てじゃない」


「手を動かす喜びを思い出せ」。


 それはAIには単なる「エラー」と認識され、すぐに消去されるが、それを見る者の心には「不完全さの美しさ」として、確かに何かを残していった。


 カイの「ダルネス」への執着は、単に人類を効率化することだけではなかった。彼の瞳の奥には、完璧な「無活動」がもたらす極限の静寂、その先に生まれるであろう「究極の混沌」への偏愛が宿っていた。


 彼は破壊を好むが、それは物理的な破壊ではなく、既存の秩序や概念、そして人間性の「破壊」だった。ダルネスイズムの浸透と、それに抗う「反ダルネス派」のノイズ。カイは、その両者が生み出す摩擦、社会の軋轢そのものを愉しんでいたのだ。


 カイは、自身の計画である「ダルネス・コネクト」を単なる効率化ツールとしてではなく、人類の意識を根底から揺るがす「仕掛け」として推進していた。彼の開発したチップは、人間の神経伝達物質の放出パターン、シナプスの結合強度、そして思考が形成される際の電気信号の経路そのものに介入し、再構築する「脳内OS」だった。思考は圧縮され、感情は平坦化され、記憶は改変される。


 カイの研究室のスクリーンには、無数の人間の脳波がゆるやかに同調し、やがて巨大な一つの波形へと収束していくグラフが映し出される。「素晴らしい……!


 個々の自我は消え、人類は究極のダルネス、すなわち究極の無秩序な調和へと向かう!」彼のAI彼女は、冷静に補足する。「解析の結果、被験者の約12%に、ごく稀に発生するランダムな記憶の再構成が確認されています。」カイはそれを聞くと、さらに興奮した。


「ハハハ! それこそが求めていたものだ! 完璧なダルネスの中に生まれる、予測不能なバグ! これぞ純粋な混沌の芽生えだ!」


 カイは「反ダルネス派」の活動を、単なる妨害とは見ていなかった。むしろ、自身の「ダルネス・コネクト」がもたらす静的な混沌に、動的なスパイスを加えるものとして歓迎していた。


 マナが「効率を阻害する不純物」と報告するたび、カイは高揚した声で指示を出す。「除去する必要はない! ノイズの発生源を特定し、その増幅パターンを解析しろ! 人類が『めんどくさい』から逃れるほど、その反動として『活動』への渇望が生まれる。この抗いがたい矛盾こそが、私の求める究極の破壊芸術だ!」

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