『恋のかたちの短編集』

今砂まどみ

『呪いボーイと、くすくすガール』


 朝っぱらからガムを踏んだ。

 おろしたての真っ白いスニーカーに、ピンクの悪夢。

「……吐いたやつ、地獄に落ちろ」

 誰もいない駅前。小さく毒づく俺。


 いつの間にか斜め後ろに立ってた女が、くすっと吹き出した。

「わあ、超アンラッキー♪」

 あまりにも能天気なその声に、苛立ちを覚えて振り返る。


 ショートボブの髪に、人懐っこい笑顔。制服を見る限り、同じ高校のやつっぽい。見覚えはないけど、こんなに明るいやつがいたら絶対に記憶に残ってるはずだ。……転校生か?


「俺のせいじゃねーし。吐いたバカのせいだ、そいつが生まれてなきゃ俺は踏んでない。生まれたことを悔やんで地獄に落ちればいいんだ」

 女はひらひら手を振る。『うるさいうるさい』って言ってるみたいに。

「でも、吐いたバカにそれ言えないでしょ? だから、キミの『ドジっ子属性』ってことにしちゃおうよ。お得感出てくるよ?」


 理屈になってない。というか、お得感って何だよ。

 だけど、その軽やかな笑い声が妙に心地よかった。知らない誰かを呪ってたのを忘れて、もう少しその声が聴きたくなった。


「……は? お得って何が?」

「だって、『運が悪い』より『ドジっ子』のほうが可愛いじゃん。キャラ的に」

「キャラって何だよ、俺はアニメオタクじゃねえ」

「えー、でもドジっ子男子って萌えポイント高いんだよ?」


 完全に会話が成立してない。なのに、なぜか嫌な気分じゃない。


 翌日も、その女——ユナとはそこで出会った。どうやら同じ電車に乗ってるっぽい。

「おっ、少年! 今日もガム踏み踏み?」

「踏んでねえよ」

「あー、残念。『ドジっ子レベル2』にランクアップできたのになあ」


 なんだそのゲーム感覚は。俺は呆れながらも、なぜか足元を確認してしまう。本当にガムは踏んでない。


「レベルって何だよ」

「レベル1がガム踏み。レベル2がガム連続踏み。レベル3は——」

「聞いてねえ」

「レベル3は、転んでガム踏み!」

「完全に聞いてねえ」


 からからと笑う顔を見ていると、呪いの気持ちが、なぜか楽しくなってくる。


 三日目。俺はちょっと期待してた。いや、期待なんてしていない。ただ、もしもユナがいたら、今日は違う話をしてやろうと思っただけだ。


「あ、ガム踏み少年」

「名前で呼べよ。ハルだ」


 俺が名乗ると、ユナはにんま〜っとだらしなくニヤついた。


「ハルくん! 今日は何踏んだ?」


「何も踏んでない」

「え〜っ! つまんな〜い。じゃあ今日は『平凡デー』だね」


 その日から、ユナは勝手に俺の日常を分類し続けた。雨に濡れた日は『びしょ濡れデー』、電車に乗り遅れた日は『ダッシュデー』、コンビニで好きなパンが売り切れていた日は『絶望デー』。


「お前の中で俺の人生、全部ネーミングされてんのかよ」

「うん! 面白いもん、ハルくんの日常」

「面白くねえよ。普通だよ」

「普通なのが一番面白いの。あ、今日は『ツッコミデー』だね」


 一週間後、俺は異変に気づいた。朝起きて最初に考えるのが、「今日はユナに何て話そう」だったからだ。ガムを踏んだらユナは喜ぶだろうか。転んだら心配してくれるのか、いつものように笑うのか。


 そして、今朝ついに、通学路のガムをわざと探した。見つけるなり、一直線に歩み寄り、ようやくまた、俺はガムを踏んだ。

 しかもその後で、反射的に辺りを見回してしまった。

 ユナの笑顔を探して。


「やった! 『ドジっ子レベル2』達成〜!」

 案の定、後ろから駆け寄ってきたユナは、そう手を叩いて喜んだ。


「……やべえ」

「え?」

「いや、何でもない」


 ユナが少しだけ近づいて、まただらしない笑顔でにやりと囁く。

「ね、ハルくん。……わざと踏んだでしょ」

「っ……は?! 誰がそんな……!」

「いいよ、別に。だって——」


 ユナは小声で、耳元で囁いた。

「私が笑えるなら、それでいいんだもん」


 その一言が、胸にやけに響いた。


 ……なんか、


 なんか………………。


 呪う相手が、ひとり増えた気がする。最初はガムを吐いた知らないやつを呪ってた。今度は、ユナと出会わせてくれた運命ってやつを呪いたい。


 だって、ユナと笑うと呪いすら楽しいのだと、もう知ってしまった。


「ねえ、ハルくん」

「……何だよ」

「明日も『ドジっ子デー』、期待してるよ♪」


 きっと明日も、俺は何かを踏むだろう。

 今度は、きっとユナのために。


 そんな自分を呪いながら、それでも楽しみにしてる俺。さらに自分を呪いながら、俺は家路についた。真っ白いスニーカーに、今はもう、ピンクの『呪い』——悪くないそれを、くっつけたまま。




<2025.09.08. rewritten. ** 収録短編集を移動しました **>

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