ゴールキーパー誘拐事件
徳﨑文音
試合前日20:00 井上優の証言
コトコトと音を立てる鍋の蓋を取れば、食欲をそそる匂いの湯気が上がる。鶏肉の塊に竹串を刺すと何の抵抗もなく埋まっていく。これだけ柔らかくなっていれば匂い通りの味も染み込んでいるだろう。コンロの火を止めてキッチンカウンター越しに時計を見た。
白い壁にかかる黒い時計は二十時を指しており、弟の帰宅予定時刻から二時間以上過ぎている。意識だけはプロ並みに高いアマチュアサッカー選手の弟が試合前日に帰宅が遅くなる事など今まで一度も無かった。
両親が付き合いきれないと匙を投げた、弟のサッカー選手としての生活に俺の日常はこの十年巻き込まれ続けている。ただ真面目でストイックな弟が生活習慣を崩さないから俺は付き合い続けられている。あれがいい、これがいいと流行りに乗って生活習慣を変えるようなら俺だって匙を投げていたと思う。
弟の為に作ったタンパク質多め、塩分控えめ且つ美味しく食べれる料理たちを皿に盛る前に弟へ電話をかける事にした。十回以上コールしたが弟は出ず、女性の声で「呼び出しましたがお出になりません」とアナウンスが流れるだけだった。電車やバスに乗っていて出られない可能性も考えてラインを送ってみるが、既読もつかない。
今日は土曜日で仕事はなく、チームの練習だけの予定だった筈だ。それも午前中に軽めの調整だけだった筈。いくら明日が大事な試合でも六時間以上も居残り練習をしている訳はない。大事な試合の前日こそ過剰なトレーニングはしないだろう。
練習場に居るわけもないがチームの事務所へと電話をしてみる。こんな時間に事務所に人が居るわけないかと思いつつかけた電話だが、コールが鳴った瞬間にチームの代表が電話に出た。
「遅い時間にすみません、井上遥の兄です。もしかして弟がいつまでも練習してて、事務所を閉めれないとかって状況になってます?」
「いえ、明日の試合の準備で事務方が残ってるだけですよ?選手は皆午前の練習が終わったら帰っていきました」
「そうですか。実は弟がまだ帰って来てないんです。大人なのでこれくらいの時間に心配するのもおかしく思われるかもしれませんけど」
「えぇっ?井上選手がまだ帰ってない?仰りたい事は判りますよ。あの井上選手ですからね。他の選手たちにも連絡して聞いてみます。折り返しは、この今表示されてる電話番号で宜しいですか?」
代表の苦笑交じりの返答は弟の日頃の言動の賜物だろう。どうやら、弟のクソ真面目っぷりはチームの人にも伝わっているらしい。こんな宵の口にもならない時間でも大の大人を探してくれるのはありがたい。まぁ明日の試合に正キーパーの弟が居ないとか、コンディションが悪いとかなればチームとして困るというのもあるだろう。
「お忙しい所申し訳ありませんが、お願いします。こちらも知り合いに当たってみます」
一先ず一時間後に折り返しをもらう約束をして電話を切った。知り合いに当たると言っても、共通の知人は少ない。両親は他県に住んでいるし明日の試合を見に来るとも言っていなかったから、一緒にいる可能性はないだろう。あとは高校時代の同級生が一人近くに住んでいたか。近所で会えば挨拶くらいはするけど、特に親しい訳では無い。そう言えば、先月は試合を見に来ていたな。もしかして弟とは連絡をとっていたのか?
高校時代の同級生の連絡先や、他の知り合いの手がかりなんかを探すため、俺は弟の部屋に向かった。パタパタとスリッパが廊下を叩く音がやけに大きく聞こえる。ダイニングキッチンから弟の部屋までほんの十数歩が遠く感じた。
カチャリとドアノブを下げて扉を押すと、当然ながら部屋の中は真っ暗だ。窓の向こうの街明かりだけがポツポツと輝いている。
ドアのすぐ横の冷たい壁に手を滑らせてスイッチを押して明かりをを付けると正面の机の写真立てでは高校時代の弟が満面の笑みを浮かべてる。あの頃がピークだったなんて言われてるけど、俺はそうじゃないと思ってる。弟は運が無かっただけなんだ。
高校を卒業した弟の選んだ進路が今となっては悔やまれる。ゴールキーパーは一人しか試合に出られないポジションだ。試合に出るにはそのチームで一番である事を示さなければいけない。日本代表のキーパーが所属するビッグクラブの控えより、少し下のカテゴリでコンスタントに試合に出る方が試合に出るチャンスや長くプロで居られた可能性はあっただろう。
弟の部屋にはプロだった時の物は、何もない。在籍期間中にカップ戦の優勝はしてたけど、試合に出てなかったからと、その時の記念写真なんかも全部実家の押し入れに封印されている。両親はこっそり見ているらしいけど。
弟にとって大事な事は試合に出て勝利を掴むことなんだ。きっと、明日の試合も、楽しみにしてただろう。明日の試合に出て、勝って、昇格を掴めば、あの高校時代の写真の様に笑っただろうか。追い詰める様なストイックさは緩んだだろうか。全ては弟が帰って来ればの話だ。
もう一度弟にメッセージを送る為にアプリを開くが、未読のままだ。「明日のコンディションに響くぞ」とメッセージを送る。この一言でも弟が見ればきっと慌てて帰ってくる事だろう。明日の試合に出るつもりなら早く帰って来い。
部屋の真ん中に敷かれたストレッチマットに座ってぐるりと見回せば、ベッドの頭元の棚に名刺を見つけた。書かれてる名前は、近所に住む弟の同級生だ。あいつ、探偵なんてしてたのか。
名刺には電話番号の他にメールアドレスも書いてある。こういう時、一度に何人もに連絡をしたい時には電話よりメールが便利だ。電話を掛けると余分な話に時間を取られたりするからな。一先ずこの名刺の相手に軽く弟との接触を尋ねるメールを送っておこう。
それから、棚の引き出しの一番下を開ければ、高校時代の思い出の品々と共にシルバーのガラケーが出てきた。ちゃんと充電器と一緒に置いてある。
充電器を繋いで電源を入れれば、その電話の中は十年前だ。弟は写真を見返してたんだろうけど、俺は電話帳を開いた。
昔から几帳面な弟は電話帳のグループ設定をしてた。「クラスメイト」「部活」に分類されてる連絡先のメールアドレスを自分のスマホに打ち込んで、って面倒だな。我が弟ながら、友達多すぎないか。
それから、思い当たるいくつかの連絡先にもポツポツとメールを送っているうちにスマホが震えた。画面に表示されたのはチーム事務所の電話帳番号だ。約束の時間にはまだ十五分もある。
「井上さん、選手たちに連絡とってみましたよ。キャプテンにかけたら、グループラインで連絡取ってくれたお陰で、練習後の様子はすぐに判りまして、最後まで一緒に居たのは土肥選手だったみたいです」
「えっ?土肥選手ですか?!」
思いがけない名前に驚いて顔を上げると、人相の悪い男と目が合った。さらにギョッとした所で、相手の表情も目を見開いたのでその人相の悪い男が窓に映った自分だと気付いた。
「えぇ、土肥選手です。見ていたのは古川選手で何やら深刻な顔して話してたって言うから、土肥選手に電話で聞いてみたんですよ」
「まぁ、土肥選手は弟の事苦手でしょうから、話しかけるとなったら深刻な顔もするでしょうね」
ヒンヤリとした布を勢いよく引っ張れば、シャッと音を立ててカーテンが閉まる。土肥という名前が呼び出した不快な記憶を遮るように閉めたカーテンは勢いがつきすぎて反対側に細い隙間ができてしまった。
「えっ?そうなんです?土肥選手は個人的な相談が有って昼食に誘ったって言ってたんで、プライベートな相談するほどの信頼関係があるのかと思ったんですけどね。まぁ、それで今日の練習後に二人で、遥選手がいつも行ってる定食屋に行ったらしいです。小一時間ほど過ごしてそこで別れたと言ってました」
個人的な相談の内容までは聞かなかったのか。本当にそこで別れたのか確認も取っていないのか。店主にも話を聞いてくれれば良いものを、と思ったが、この社長はあの店主を知らないのかと思い直した。
「あぁ、その定食屋なら俺も知ってますから、店主に連絡とってみますよ」
「いや、それがですね、土肥選手と電話してる最中に脅迫状が届いたんですよ。それも、ホームページのメールボックスから」
恰幅の良いいかにも飲食店な店主の風貌を思い浮かべて、次の算段をつけていると、社長の焦った様な声が耳に刺さってきた。脅迫状なんて事件性を帯びてきたから、捜索より急いで俺に連絡をしてきたという事か。
「えっ?脅迫状ですか?!一体どんな?」
「えぇ、遥選手は行方不明ではなくて、誘拐か拉致にあったのでしょう。脅迫状は遥選手を人質に明日の試合で負ける事を要求する内容でした。要求が呑まれたのを確認できれば、明日の夕方には、自宅に帰すと」
金ならいくらでも出せる。俺の個人資産で足りなければ、両親も祖父母も出してくれるだろう。だが、明日の試合の操作は金ではできない。犯人の目的は俺や家族の手ではどうにもできない事だ。なんと難しい要求をされた事か。
明日の試合で負けて誰が得をするのだろうか、と考えた所で浮かんできたのは電話の向こうの声の主だった。選手がサッカーに専念できない財力のチーム。そんなチームが勝ちを重ねるとはどういう事か。
「それはまた随分とチームに都合の良い脅迫状ですね?」
「どういうことです?」
「いや、明日の試合で勝って、昇格したとして、遠征費なんかを賄うほどの財力ないですよね?明日負けて、今のカテゴリでやってる方が運営的には良いのではないですか?」
「井上さん!言って良い事と悪い事がありますよ!遥選手だって必死に上のリーグ目指してやってたじゃないですか?!それを無駄にする事を容認するようなチームだと思われてるんですか?」
電話越しのチーム代表の声がガンガンと響く。電話越しなら殴ることもできないんだ、怒鳴られたって怯む必要はない。まぁ、それ以前に、俺は大概の事には動じないのだが。怒鳴るって事は図星を突かれている状態の場合だってあるだろう。
「俺は現実を見てるだけですよ」
才能溢れる弟が出場給しか貰えないチーム。生活するために働かねばいけない状況。まぁ、実際は弟がサッカーに専念したって俺が養う事もでき、世間体のために弟は働いているだけなのだが。要するにチーム全員がサッカーでは生活できない程度の財力という現実だ。代表にだって見えているだろうに。
「井上さんには見えてない物もあるんですよ。この大会に出場が決まってから、一緒に夢を見たいって企業さんからの連絡も沢山頂いてるんです!こんな時間まで事務所に人間が居るのも、そういう企業さんへの対応があるからってのもあるんですよ!」
「そうですか?チームとしては勝って昇格を決めるつもりで、それ以降の運営資金にも目処が立っていたと」
俺は殊更に声のトーンを低くして、馬鹿にしたような雰囲気を作る。対面なら表情一つなのに、声でってのは難しいものだ。代表の真意、正確なチーム状況が見えれば良いのだが。
「そうですよ。明日の試合は運営資金を確保するにも重要な試合なんです。ですが、誘拐事件の要求が敗戦であるなら、事情は変わります。遥選手の安全が一番ですから」
幾分かトーンが落ち着いた代表の声に、プップップという短い電子音が混ざった。チラリと画面を確認すれば手元の名刺に書かれた電話番号が表示されている。メールの返事に電話をかけてくるのは、心当たりがあるのか、ただの興味本位か。
どちらにせよ、このチーム代表との会話よりは役立つ情報を集められそうな気がする。この電話を手早く切るには何と言えば良いか。ついでに、チームが昇格にどれほど本気なのかも測る言葉を考える。写真の中の弟と目を合わせて、弟の言葉を想像する。
「代表、この事はできるだけ内密に、チームもいつも通りに試合に臨んでください。弟もきっとチームの勝利を望んでいるでしょうから。明日の試合で昇格を決めてしまってください」
「内密にと言われますが、井上くんの行方を尋ねる為に選手たちには連絡をしていますし、今から警察にも連絡しないと」
「警察の連絡はこちらでしておきます。もう既に話してしまっている選手たちには事情を説明しても構いませんが、心配せずにいつも通りに試合に臨むように伝えてください。弟の安全確保は俺がなんとかします。試合が終わるまでに必ず弟を見つけますから」
こんな早口で無茶なことを言って、きっと不審に思われているだろう。いつも通りに試合に臨んでと言われて、事情を知ったうえでそれができる人間がどれほどいるだろうか。この代表にしたって、俺の言葉に乗るとは思えないが。
「試合が終わるまでって、どこに居るか見当がついているんですか?」
「いえ、さっぱり。まぁ、探偵に金を積んで少し無茶をしてもらいますよ」
「そんな……」
「では、俺は探偵の手配もあるので失礼します」
代表の返答を聞かずに電話を切ってキャッチに応答する。と同時に立ち上がって遥の部屋を出る。待たせた事を謝りつつ、パタンと扉を閉めた。
「もしもし?井上さん?遥が居なくなったってどういう事?」
「久しぶりだね、松本くん。俺の依頼を受けてくれるかな?金はまぁ出せるだけだすよ」
松本の声には僅かな焦りが滲んでいる気がした。焦るほど遥と親しかったとは知らなかった。リビングへと戻りながら、殊更ゆっくりノンビリと言葉を吐いていく。
「依頼ですか?この電話は弟の同級生ではなく探偵にかけていると?」
仕事の依頼だと言ったからか、松本声の調子が急に変わった。公私が分けれるタイプか。思ったより優秀な探偵なのかもしれない。
「そうだね。探偵の力を借りたい。今チームの代表から電話があってね、弟は誘拐されたらしい。身代金なら俺が払おうと思ったんだけど、要求は金じゃなかったんだ」
「誘拐して身代金じゃない要求?」
ふんわりと出汁が香るリビングのソファーに座りながら、弟の部屋に優秀そうな探偵の名刺が有った理由を考える。昔は何でも俺に相談してくれてたのに、と僅かな寂しさも感じる。最後に悩みや愚痴を聞いたのは夏前だったか。
「あぁ、要求は明日の試合で負ける事だってさ。弟の部屋に名刺が有ったって事は松本くん、弟から何か相談されてたんじゃない?ほら、チームメイトには弟と考え方が真逆の選手もいれば、過去にトラブった選手もいるからさ。この名刺って、弟からチーム内のトラブルを聞いてたって事じゃないの?」
この前、弟が珍しく怒っていたのは何という選手のことだったか。弟のチームメイトに向上心のない選手がいるなんて、許せるものではない。
「井上さん、チームの中に犯人が居ると思ってるんですか?」
「松本くん、明日の試合がどんな試合か知ってる?勝てば大きくチーム環境が変わるんだよ。負けろなんてその変化を望まない人間の要求だと思わない?」
「……分かりました引き受けましょう。それで私が探すのは遥?それとも犯人?」
「遥の発見で五百万、犯人まで見つけたらもう五百万出すよ」
松本くんがどれほどの腕前の探偵かは知らないが、明日の夕方にはチームが遥に相応しいかどうかは十分に見極められるだろう。
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