第12話 交響曲「未完成」
先生は大作曲家なのに自分にそれほど自信がないようなご様子。謙虚さは先生の長所だけれど、この時代のこの世界では先生は本当に教科書に載るほどの大作曲家なのです、と何度伝えてもそれを信じることもない。
だから先生の作品は世紀を超えて愛されている、そのことが事実なのだと知ってほしくて私はクラシックのコンサートチケットを購入した。
シューベルト、でコンサートを探してみても、シューベルトの曲だけを演奏するようなコンサートは見当たらなくて、だから仕方なく他の作曲家の曲目も演奏される、直近で比較的近所のコンサートホールで行われる演奏会の席をとりあえず押さえてみる。
プログラムは交響曲が連発される構成だった。
・シューベルト作曲「交響曲第八番 未完成」
・ベートーヴェン作曲「交響曲第五番 運命」
・ドボルザーク作曲「交響曲第九番 新世界より」
私は子どもの頃にピアノのレッスンに通ったくらいでそもそもクラシック音楽に詳しいわけではないから、よくわからないのだけど……。交響曲って何だっけ……。
作曲途中の先生。ピアノの部屋を訪ねる。
「先生」
「ああ、詩さん」
「調子はいかがですか?」
「ええ。今書いている曲に集中していました。あともう少し書こうかな、と」
「そうですか。先生、お茶、いかがですか?」
「ああ、そうですね。ありがとうございます」
「あの、先生」
「はい」
「交響曲って、何ですか?」
「え? 交響曲が何かって…?」
「今度私達が聴きに行くコンサート、曲が交響曲なんですよ」
「ああ、そうですか。詩さん、交響曲というのは、ですね」
先生は交響曲の構造や形式、楽器についてを簡単に説明してくれる。
私がコンサートでベートーヴェンも演奏される、と言うと先生はなぜか喜んだ。
「詩さん、ぼくはベートーヴェンを尊敬しているんです」
シューベルトって、ベートーヴェンのことを尊敬していたの?
「先生はベートーヴェンをご存じなんですか?」
「もちろん。ぼくは子どもの頃から彼の音楽をすごいと思っていました。あんなふうに音楽を作れる人は他にいません。だからこそ、あんなに大きな存在なんです」
「へえ、そうなんですね……。ベートーヴェンって、先生よりも年上なんですか」
「それはそうです。ベートーヴェンはぼくよりもかなり年上です。彼の音楽はすごいんですよ」
「へえ……。そうなんですね」
「あなたはベートーヴェンを知っていますか?」
「それはもちろん。クラシック音楽と言ったらまずベートーヴェンじゃないですか? 一番有名かも。あ、もちろん、先生が一番です。でももちろん、ベートーヴェンはさすがに私でも知っています」
「やっぱり……」
「やっぱり?」
「彼はすごいんですね……」
「先生だってすごいですよ」
「いいんです。自分の実力を、ぼくは分かって…いますから……」
そんなことないのに。先生の謙虚なところは長所。だけど……。先生はベートーヴェンではないけれど、先生だってシューベルトなのに。
なんてことを、本人に私はうまく伝えられなくてもどかしい。「先生はシューベルトなんですよ」としか言えない。そんな言葉では説得力ゼロ……。ああ、私がもっと音楽に詳しかったら。私なんか実は…教養がなさ過ぎて今更こっそり先生の曲を調べて「この曲もシューベルトだったんだ」と思ったりしている程度だから……。
そんなわけなので、二人で週末にクラシックコンサートに出かけていく。コンサートホールが大きい、と言って先生は喜んでいたので二人でコンサート開始前に会場内を歩き回って探索する。会場に張られた赤い絨毯が気品を演出していて私達はその上を音もなくそぞろ歩く。三階席から舞台を見下ろす。最前列から舞台を見上げる。どの位置にいても先生は満足そうに微笑んでいる。
「詩さん。ぼくはあんなに大きなパイプオルガンがここにあることに驚いています」
「ああ、大きいですよね」
「あんなに大きいんですよ。立派ですね。それに美しい。ここは本当にすごい世界だ……」
「私もそう思います」
「この会場、随分多くの人が来ているんですね。こんなところで本当にぼくの曲が演奏されるのかな」
「されますよ。私も初めて聴くので楽しみです」
と言いつつ、私は先生の隣で寝てしまわないか心配……。音楽は好きだけど、クラシック音楽……。もし退屈だったら……。先生のことをこんなに好きでも、私は先生の音楽を全然理解しきれていないから。
そうこうしている間に着席のブザーが鳴ってざわめく会場内が少しずつ落ち着いていく。私達も定められた席へ。そしてオーケストラの人達が舞台に出てきてチューニングを始める。
先生の横顔を見る。真っ直ぐ舞台を見ている先生。
その顔を見る度に、好きだと思ってその手を取りたくなってしまう。もちろんそんなことはしないし、そんな思いが浮かんだらすぐにそれを消すように努力はする。今は先生の音楽に集中するんだから……。
舞台の左から指揮者が登場。歩いて中央に立つ。聴衆は拍手。
そして構え、沈黙の中から静かに音楽が始まる。一曲目が先生の交響曲。未完成。「未完成」って、先生はこの曲を書き途中で亡くなった? それとも途中で書くのを止めてしまった?
不安定な弦楽器の上に木管が奏でる悲しいメロディー。何か、暗くて悲しい物語の始まりを表しているような。
隣から見つめる先生の横顔。先生は真剣に舞台を見つめ続けている。
先生の交響曲、すごい。美しいしドラマティック。本当にこれをそんな昔に書いた?
先生がいつも書いている楽譜がこういう音楽になるなんて。あの音符を音にするとこういう音楽になる。それが先生の頭の中には入っていて、先生はそれをいつも書いている。確かに、こういう音楽のことを考えて作っているのだとしたら他のことなんかできるはずがない。そんな暇はないよね……。時間的にも精神的にも……。
この音楽……。改めて、先生はすごい方なんだなって…今さらそんなこと……。
音楽は本当に素敵で、私は舞台を見ながらちらちら先生のことも見ていて、先生はずっとオーケストラを真っ直ぐ見続けていて、ふと先生の手元に目をやると時々指がそわそわとリズムを刻んでいる。
私には詳しいことは分からなかったけれど、多分演奏も良かったのだと思う。先生の交響曲を演奏し終えた指揮者の様子が満足気でお客さんの拍手の雰囲気もそれに沿うものだったから。先生はひたすら落ち着いて拍手をするだけ。微かに笑顔。この演奏会のことを、聴衆の反応を、先生はどう思っていらっしゃるのかな……。
コンサートを最後まで聴き終えて、私は大満足でたまにはこういうのもいいな、なんて思って感想を先生に話そうと思ったら、コンサート終了直後から先生は頭痛がする、と調子が悪そう。
どうにか家まで戻ると先生はすぐベッドに入ってしまった。
今日のコンサートの話をしたかったな、と思いながらも早く頭痛が良くなるように、と思って水と薬を用意。寝ているところを訪ねるとベッドに横たわってだるそうなご様子。
「先生。失礼します。お加減いかがですか?」
「詩さん。申し訳ないです。頭痛が……。前からたまにあったんです。この世界に来てからはそれを感じずに済んでいたのに……」
「そうなんですね……。ちょっと、お疲れだったのでしょうか……。もし無理をしてくださっていたのならすみませんでした……。お薬、良かったら飲んでください。何か召し上がりますか?」
「いえ、いいです。薬は頭痛が治まる薬ですか?」
「そうです。よくある、みんなが飲んでいるような鎮痛剤です」
「ぼくは頭痛で薬を飲んだことがないのですが、詩さんが作ってくださった薬なら」
「私が作ったわけではありませんが……。薬は買ったものですが、私も飲んだことがあるし、服用に関してはご心配するほどのものではないと思います」
「では……」
先生は薬と水を飲み干してまた横になる。
「先生……」
「はい」
「コンサート、いかがでしたか?」
「とても、良かったですね」
「はい……」
「この世界の多くの人があの場であの音を聴いて拍手をしていた。あの、聴衆の方達の温かい感じをぼくはずっと覚えておくことにします。いい演奏をしてくれた演奏者やぼくの意図を汲んでくれていた指揮者にも、あのコンサートを企画して関わってくださった全ての人に敬意と感謝を伝えたいです。本当に幸せなことです。この世界にぼくの音楽があった。とてもうれしいことだと思いました」
「良かったです。私もすごく良いと思いました。あの、体調が戻られたら、また今日のコンサートのお話をしたいのですが……」
「もちろんです。今日は、すみません……」
「いえ……。どうぞ、ゆっくりお休みください。何かあったら呼んでくださいね」
今日のコンサートのこと、本当は今の熱量でお話したかったけど……。調子が良くなくてつらそうな姿を見ているのはつらい。でも……。今はとにかく早く良くなりますように。
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