宮廷魔術師の算段③
アナイスの鼻からは一筋の血が流れ、目は完全に別世界に行っている。
「大丈夫ですか?医務官を呼んできましょうか?」
入ってきた男の口調は、どこか儀礼的だった。
「いや、いい。大丈夫だ」
パチンと指を鳴らして出現させたミルク色のブランケットで、アナイスをくるみ、なだめるように背中をさすりながら、レオニーは答える。
レオニーに抱え込まれたアナイスは、大きな卵にしか見えない。
「何かすいません。タイミングが悪くて……」
男は、頭をかきながら、済まなそうに言う。が、心の内では、それ程ではないのが、なんとなく分かる。アナイスは、この男の前では、おかしな行動をとる常習犯で、今更ながらの光景なのだ。
彼の名は、オーギュスト・ハーン。騎士団に所属している。鍛え上げられた肉体は、引き締まっているのが服の上からでも分かる。それに反して、その表情の穏やかなこと。短く切りそろえられたダークブラウンの髪に映える緑の瞳は、日の光が降り注ぐ水面を彷彿とさせる。人好きのする容貌だ。
「ノックぐらいしろよな。せっかく、可愛い格好させたのに……」
ぶつくさ言うレオニーの腕の中の卵からは、ぐすっぐすっと、鼻をすする音がする。
「しましたけどね……。ちょっとしたことで驚かれる方ですから。結界を張っておけば良かったのに――」
オーギュストは、独り言のようにそう言うと、心の中で(あの様なことをする時には)と付け加える。
あの様なこと―――。ドアを開けた直後、目に飛び込んできた光景が、脳裏に再生される。ソファーに座ったローブ姿の男に抱きしめられ大人しくしている少女の後ろ姿。特別な才能がある少女とその才能を開花させようとしている宮廷魔術師。どちらも柔らかい空気に包まれていて――言葉で表せない何か特別な感情が二人の間にあるように見えた。
床に散らばる紙を、拾い上げる。そこには、手の込んだ文様が描いてある。オーギュストからしたら「どっちが上だろうか」と考える程度の意味のないその模様が、二人を強く結びつけていることは確かだ。
「そんなことしないよ。慣らしていきたいんだよ、俗世間に。アナイスは浮世離れしてるから……。ねえ、騎士様、どっか連れってってよ」
「どっかって?」
「買い物とかお食事とか」
「レオニー様が行けばいいでしょう?アナイス様も、安心できますし」
「私では、駄目なんだ……普通じゃないから」
レオニーは、答えた。まるで、自分に言い聞かせるように。
(ふーん?)
オーギュストは、レオニーを見やる。彼の腕の中の大きな卵からは、ぐすっぐすっと言う音に加え、ヒックヒックという音も聞こえてくる。べそをかいているようだ。相当、痛かったのだろう。
(確かに普通ではないが……じゃ、俺は?普通???)
「で、何が欲しいって?」
思考に耽り始めたオーギュストを現実に引き戻すかのように、レオニーは、あっさりと話を変えた。オーギュストも、慌てて、思考を切り替える。
「ポ、ポーションです。回復用の」
ポーションとは、薬効のあるものを煮出した液体に魔力を込めた薬のようなものだ。素材の組み合わせによって、魔物を撃退するもの、瘴気や空気を浄化するもの、身体機能を向上させるものなど、効能は様々である。
ナルスタス王国では、王宮専属の薬師が作った液体に専属の魔術師が魔力を込めて仕上げているが、担当の魔術師がいるので、レオニーは、たまにその効果をチェックするぐらいで製造には関与していない。だが、それぞれの部署に分けて納品されるポーションは、レオニーの部屋にも当然のごとく備蓄してある。
「何に使うの?」
レオニーは、探るような目でチロリと見る。それをもらいに来ると言うことは――。
「えーっと、予備で欲しくって……」
オーギュストは、言葉を濁した。それだけで、分かる。公に出来ないことに使うのだと言うことが。
「ふ―――ん」
レオニーは目線を落とし、思いっきり間を作ってから顔を上げ、「デートしてくれるなら」とあっけらかんと言い放った。レオニーの腕の中の卵が、ビクン、と動く。
「は?デート?誰と?」
尋ね返すオーギュストに、とびっきりの笑顔で「アナイス」というものの、答えは、「え……ムリっす」。瞬殺だった。
「何で?」という問いには、「騎士なんで」。
よく分からない理由で断られたレオニーは、意地悪な気持ちになる。
「ポーション要らないの?」
「要らないっす。騎士なんで」
「なんで」の部分を強調したオーギュストは、憤然として、マントを翻し靴音も高く部屋を出て行こうとした。強い意志を宿した冷たい瞳が、レオニーの心の奥底に眠っていた罪悪感を呼び覚ます。
「待って、待って」
レオニーが、慌てて呼び止める。騎士様の眼光に気圧されたからではない。彼が、ポーションをもらい来た理由が理由だからだ。重大事案を前に、お使い――恐らく騎士団長の――で来た近衛騎士を手ぶらで帰すわけには、いかない。例え個人的な交渉が不成立であっても――という以前に、ここは私情を挟んだらいけない場面だろう。
「いるんでしょ、ポーション……。何本いるの?」
それを聞いたオーギュストは足を止め、さっと振り返って指を三本立てる。キリッとした立ち姿、ほころんだ口元……そこにはキラリと光る白い歯が――。
(あああああ!)
子供のお守りをさせたらNo.1といわれる騎士様のサービスショット。子連れの要人警護にひっぱりだこだ。毎日、どろんこになって遊び回っていたわんぱく小僧が無事、大人になった見本のようなその姿に、彼の幼少期を知らないレオニーも、うんうん、とうなずいてしまう。
腕の中のアナイスも、こっそりのぞき見て、目を爛々とさせている。普通の子なら、歓声をあげて飛びついていくだろう。少々のことでは心が動かないレオニーも……。
「持ってけ、五本!」
思わず、口走る。
「あざ―――っす」
弾ける笑顔。
見る者全てのハートを射抜く矢が多方向に乱れ飛ぶ。その一本は、レオニーのハートにも、しっかりと突き刺さった。
(こりゃ、アナイスも好きになるわ……。待ってろ、アナイス。とーちゃんが、絶対、釣り上げてやるからな……)
アナイスの背をなでながら、にこにこと騎士様の後ろ姿を見送るレオニーが、父親気分でそう決意を固めたことを、オーギュスト本人は知る由もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます