第4節 隠された過去
寄宿舎の自室。
窓の外では、夜更けの風が電線を震わせていた。遠くでドローンの羽音がかすかに響き、都市〈仙都〉の眠りはいつも浅い。
机の上には、一冊の古びた家系録。
湊は灯りを落とし、懐中小型ランプだけでページを繰っていた。黒書庫から戻る途中、図書棟の閲覧台で偶然見つけた“複写版家譜”。そこには「篠原家」の名が確かに記されていた。
──〈古(いにしえ)の言霊司(ことだまつかさ)を祖とする〉
──〈戦乱の折、名を捨て、諱を封(ふう)ず〉
──〈口伝、三つ。第一、言を軽くせぬこと。第二、誓いを軽んずるな。第三、声を世に混ぜるべからず〉
「……声を、世に混ぜるな」
湊は思わず呟いた。
いつの頃からか家では“人前で無闇に発言するな”と教えられてきた。子どもの癇癪でも、嘘でも、からかいでも──声は誰かを傷つけ、世界を歪める、と。
それは厳しい父の口癖であり、優しい母の沈黙でもあった。
ページの端に、擦れた墨で短い注記がある。
──〈黒書庫ノ件、触ルベカラズ〉
──〈監(み)る者アリ〉
「監視者……やっぱり昔から」
黒書庫で感じた冷たい足音が脳裏に蘇る。
学園だけでなく、国家レベルの監視網──AIが張り巡らせた目と耳──は禁書と血筋の痕跡を探しているのかもしれない。
ランプの灯が揺れ、別の古記が現れる。
──〈篠原ノ祖、かつて“言ノ座”ニ至ル〉
──〈座ニ至ル者、国ヲ束ネ、民ヲ縛ル枷トナル〉
──〈よって名ヲ捨テ、声ヲ分カツ。声ヲ分ツ者、凡(およ)そ落人(おちうど)ノ貌(かたち)トナル〉
「“声を分かつ”……?」
言霊の血を継いだ者は、声を分割する。
半分は自分の中に沈め、半分は世界へ散らす。
それは強大な力を封じるための、先祖たちの自己破壊だったのだろう。力を均(なら)すために、自ら“落ちこぼれ”の仮面を被る。
だから自分は、式神も呪符もことごとく外す。
だが一言だけ、正しく刺さる。
“ゼロ”でありながら、世界を震わせる矛盾。
「……滑稽だな。笑われるはずだ」
湊は苦笑し、指先で紙の縁をなぞった。
ページの下部に、さらに細い文字。
──〈言ノ座ヲ再(ふたた)び起こすべからず〉
──〈ただし、天地の綻(ほころ)び大きく、龍脈乱ルる時は別〉
──〈その時は、“つなげ”の誠言(せいげん)を以(もっ)て鎮めよ〉
“つなげ”。
黒書庫で、空から降ったあの一語だ。
家譜の最後に、見慣れない印影が押されている。
赤い朱の輪。その中央に、微かな三日月。
──母の印と同じだった。
胸が詰まる。
母は、ほとんど家のことを語らなかった。ただ夕餉の支度をしながら、ときどき窓の外に耳を澄ませる癖があった。風や雨や鳥の声に、黙って頷くことがあった。あれは単なる癖ではなかった。
彼女もまた、声を分けた一人だったのかもしれない。
記憶の断片が浮かぶ。
幼い日の熱。布団の端で母が囁いたやわらかなことば。
──「大丈夫。言葉は、刃じゃなくて橋よ」
橋。
破壊ではなく連結。
“言ノ座”の血が、別の使い道を模索した痕跡。
◆
机上の端末がかすかに震えた。
学園インフラに繋がる通知灯が、ひとすじ青白く点滅する。
湊は反射的に画面を伏せた。AI監査デーモン〈JANUS〉の周期巡回──情報流出や違法アクセスを感知する常駐監視。黒書庫周辺のセンサーが揺れた今夜、個別端末の挙動も例外なく記録されているはずだ。
(踏み込まれたら終わりだ)
閉じた画面の黒に、自分の顔が映る。
“ゼロ”の落ちこぼれ。
けれど家譜は、違う可能性を示している。
──〈声は祈りにも呪いにもなる〉
──〈ゆえに誠言をもって調(ととの)えよ〉
誠言。
虚飾のない、ただひとつの正直な言葉。
湊はゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。
夜風が流れ込み、カーテンが魚の尾びれみたいに揺れる。
遠い高層の谷間で、うねるような振動が地に伝わってきた。龍脈が、また身じろぎをしている。
──〈おまえの名は〉
耳の底で、あの声が微かに鳴った。
黒書庫で聞いたそれよりも、やわらかい。問いかける声。
湊は答えなかった。
まだだ。名乗れば、たぶん何かが始まってしまう。
その代わり、胸の中で言葉を整える。
“橋”。
“つなげ”。
“誠言”。
誰かを支配するためじゃない。
誰かを救うためだけでもない。
断たれたもの同士を、ほんの少し近づけるために。
◆
翌朝、登校路。
校門前には、見慣れない黒い公用車が停まっていた。
降りてきたのは黒いスーツの男女。胸章には学園徽章と、もう一つ──国家情報庁の副章。彼らの視線は鋭すぎて、空気が薄くなる。
「昨夜、図書棟のセキュリティが一時的に低下した。
巡閲です。協力を」
校務アナウンスが流れる。
ざわめく生徒たち。ユリウスは遠巻きにそれを見て、薄く笑った。
「面白くなってきたな」
彼は端末を指先で撫でる。
AIが拾った断片的なログ、熱源の移動、扉の解錠タイムスタンプ。
その幾つかが不可解に欠落していることを、彼はすでに掴んでいるようだった。
湊の背に冷たい汗が伝う。
隣に並んだ美琴が、そっと袖口を引いた。
「大丈夫。私は、見てた。君は誰も傷つけてない」
その一言で、呼吸が戻ってくる。
彼女の言葉は、騒音の中に投げられた小さな“誠言”だった。
(守らなきゃ。声も、彼女も)
◆
午前の授業は形式的な自習になり、監査官が各教室を回った。
鋭い目が、一人ひとりの端末と顔をなぞる。
湊の席の前で、一瞬だけ足が止まった。
「篠原湊。等級判定、ゼロ」
監査官の女が、無表情に読み上げる。
クラスの空気がわずかに緩む。「ゼロ」は疑いを免罪する烙印でもあった。力なき者は、禁忌に触れない──そう決めつける思考の怠惰。
視線が過ぎ去る。
そのとき、教室の隅でユリウスがわずかに口角を上げた。
「ゼロ、ね」
彼のまなざしだけは、免罪を与えない。
AIは、穴の形を記憶する。
“何もない”は、時に最も濃い痕跡だ。
◆
放課後。
学園の外縁、古い石段の下で美琴が待っていた。
薄暮の風に髪がほどけ、頬をかすめる。彼女は小さな包みを差し出した。
「これ、うちの神棚の前で焚いた塩。お守り代わりに」
「……ありがとう」
湊は受け取り、胸ポケットにしまう。
塩の重さは軽いのに、不思議と体の芯に芯が入ったような心地がした。
「ねえ、湊くん。昨日、黒書庫で見た“つなげ”って言葉……。
あれ、怖くもあったけど、少し優しかった」
「うん。怒号じゃなかった。祈りに近い」
「だったら、たぶん──君に向けられてる」
美琴の瞳は、夕暮れの色を深く映していた。
彼女は恐れていない。
世界のざわめきと同じ調子で、湊の沈黙も受け止める。
「私、知りたい。湊くんの“隠された過去”も、君の“これから”も」
湊は一瞬、目を閉じた。
家譜の朱印。母の横顔。父の重い背中。
“声を分けた一族”の物語は、もう隠しておけない。
「……いつか話す。すぐじゃない。でも、逃げない」
「うん。待つよ」
短い対話が、確かな橋になっていく。
彼らの足元で、石段の隙間に生えた草が風にふるえた。
その震えの奥から、遠く都市の底鳴りが高まる。
龍脈が、ほんの少し身を起こした。
綻びは大きくなっている。
“言ノ座”に至った祖の影が、時代の縁に薄く重なる。
──〈来い〉
──〈つなげ〉
呼び声はもう、避けるほど弱くなかった。
湊は、ポケットの塩の感触を確かめる。
そして顔を上げた。
明日、学園は全学年合同の実技訓練を実施するという通達が出ている。都市の外周結界で起きている“微少ノイズ”──AIの言葉で言えば“誤差”──の調査を兼ねる演習だ。
“誤差”。
世界の揺らぎを、彼らはそう呼ぶ。
だが言霊は、それを“綻び”と呼ぶ。
「行こう、美琴」
「うん」
ふたりは並んで石段を上がった。
夜の空には、雲が細い糸を引きながら流れていく。
その糸はやがて一本の線になり、見えない文(ふみ)を描くだろう。
落ちこぼれの少年と、風を聞く少女。
隠された過去は、未来の入口に繋がっていた。
そして、都市の上で微かに裂ける音がした。
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