第四章:秘密の温泉旅行:未来の予感

【4-1】

(…ほんとに、私たち、つきあってるんだよね?)


自席に座りながら、ふと胸の奥でそんな問いが浮かぶ。

まだ夢のようで、実感が追いつかない。だからだろうか、気づけば視線が勝手に彼を探してしまう。


斜め前の席。

俊太郎は、真剣な眼差しでモニタに向かっていた。

眉間に寄せられたしわも、きちんと揃えられたネクタイも、どこか隙のないその横顔も、目に入るたびに胸がざわめく。


そのとき、不意に彼が顔を上げた。

一瞬だけ、視線がぶつかる。

慌てて逸らされるその眼差しの奥に、柔らかな光を見てしまった気がした。


(…見てたの、気づかれた?)


鼓動が速まる。

思わずうつむき、キーボードを打つふりをしながら手元を見つめる。

誰にも気づかれないのに、自分の胸の音だけがやけに大きく響いている気がした。


午後の会議室。

偶然にも、俊太郎の隣に座ることになった。

距離が近いだけで、どうしてこんなに緊張するんだろう。

息苦しさすら覚える。


スクリーンに投影された資料を見るために体を傾けた瞬間、パンプスの側面が彼の革靴に触れた。


咄嗟とっさに謝ろうとしたが、言葉は喉に貼りついた。

避けると思ったのに、彼は小さく爪先で「トントン」と返してきた。


(――えっ)


思わず息が詰まる。

発言のために声を出そうとした瞬間、裏返りそうになり慌てて咳払いをした。


(だめ…誰かに気づかれたら…)


けれど、彼が「わざわざ返してくれた」ことが嬉しくて、心臓が跳ねあがる。

緊張と喜びが同時に押し寄せ、胸の奥がじんじん熱を帯びていった。


日が落ちたオフィス街。ビルの出口を出たところで、俊太郎が待っていた。

偶然を装っているけれど、結衣にはわかる。


「お疲れ様です」


「村瀬くんも…お疲れ様」


互いに声を抑えながらも、その響きに小さな温度が宿る。


「駅まで、一緒に歩きませんか?」


その問いに、結衣はうなずいた。

少し距離を置き、並んで歩く。

本当はもっと近づきたいのに…。

けれど「誰かに見られたら」と思うと、それ以上は踏み出せない。


「そういえば、新藤さんはいつもランチどうしてるんですか?」


「前はお弁当作ったりもしてたけど…最近は近くのカフェで済ませちゃうことが多いかな」


他愛もない会話に笑い合う。

その時間が心地よくて、結衣はふと思う。

駅までが、もっと遠かったらいいのに、と。

改札の手前で足を止める。


「じゃあ…また明日」


「うん…お疲れ様」


視線が、一瞬だけ絡む。

触れることも抱き寄せることもできない距離に、甘い切なさが凝縮されていた。


揺れる電車の中、窓に映る自分の顔は赤みを帯びていた。

明日も会える。

それだけで嬉しいはずなのに、どうしてこんなに足りないんだろう。


と、その時バッグの中のスマホが震えた。

画面に浮かんだのは俊太郎からのメッセージ。


〈――来月の連休で、少し遠出して温泉でも行きませんか?〉


文字を見た瞬間、胸の奥に俊太郎の声がよみがえる。

指先が小さく震え、息が詰まった。


驚きと嬉しさを抱えたまま、結衣は頬を熱くしながら返信の文字を打ち始めた。

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