第五話 改革の決意
帳場の奥にある小座敷で、明と潔子は膝を突き合わせていた。
昼下がりの陽光が障子を透かし、畳の上に淡い影を落としている。外では仲居衆が洗い物を片づける音が響き、館全体がひとときの静けさに包まれていた。
明は口火を切った。
「……一年で利益を上げろと言われても、ただ待っていては何も変わりません。何か大きな手を打たなければ」
潔子はきちんと背を伸ばしたまま、静かに頷いた。
「ええ。しかし急ぎすぎては、旅館の誇りを損なうことにもなりかねません。父の代からの評判を落とすような真似は、どうしても避けたいのです」
「もちろんです」
明は彼女の言葉を否定せず、真剣な表情を浮かべる。
そのとき、襖が開き、年配の女性が姿を現した。
「話し合いをしていると聞いてな。母も混ぜてもらおか」
潔子の母、白石はるである。白髪をきちんと結い上げ、控えめながらも女将としての風格を漂わせていた。
「お母さま」
潔子はすぐに座を正し、深く頭を下げた。
はるは二人の向かいに腰を下ろし、静かに場を見渡す。
「柴田はんの言うことは、耳にした。……厳しいが、あれは脅しやない。桐生の人らは必ず実行に移す。うちらが本気で立て直すしかあらへん」
その声音には重みがあり、潔子も明も自然に背筋を伸ばした。
「では、何から始めるべきか」
明が口を開いた。
「僕にできることは、宣伝と集客です。新聞広告、ちらし、雑誌への掲載……そういう仕掛けなら、経験があります。青陽社で手を回せますから」
潔子が眉を寄せた。
「ですが、派手に宣伝をしても、中身が伴わなければ逆効果ではありませんか」
「おっしゃる通りです」
明は頷き、潔子を正面から見つめた。
「だから、旅館の中身――料理や設え、もてなしの在り方は、潔子さんにお願いしたいんです。僕は外に向けて人を呼び込みます。その代わり、来たお客様に『また泊まりたい』と思わせるものを整えてください」
潔子は言葉を失った。重責を押し付けられたのではない、対等の責任を求められているのだと感じた。
そこへ、はるが口を挟んだ。
「料理の見直し、確かに必要やな。今の板場は腕は立つけど、戦前のやり方に固執してる。物資も変わり、客の舌も変わっとるのに」
「ええ。父の代の献立は立派でしたけれど、今はそれが時代遅れに見えることもあります」
潔子が母に同意した。
明は二人の意見を聞きながら、さらに踏み込む。
「もう一つ、大きな問題があります。建物の老朽化です。雨漏りもあるし、客室の設備も古い。このままでは客を増やしても続きません。一度、思い切って修繕しませんか」
潔子が息をのんだ。
「……修繕、ですか」
「はい。一時的に旅館を閉めて、設備を整える。庭や座敷の美しさは残したまま、必要な部分を改修するんです」
はるが眉をひそめた。
「それには金が要る。資金援助で得たものは、手をつければすぐ底を突くやろう」
明は頷き、落ち着いた声で言った。
「資金は、僕の貯金を使います」
二人の視線が、いっせいに明に注がれた。
「明さん……」
潔子は言葉を探した。
「ご自身の貯金を、そこまで……」
「僕にとっても後がないんです。桐生家に旅館を取られるのは、潔子さんだけでなく僕にとっても終わりを意味します。だから投資する価値はあります」
その表情は真剣で、冗談のかけらもなかった。
しばしの沈黙の後、はるが静かに息を吐いた。
「分かった。……あんたの覚悟、受け取ろか。わしらも覚悟決めなあかんな」
潔子は母の言葉に背を押され、明を見据えた。
「分かりました。料理ももてなしも、わたくしに任せてください。必ず、この館を再び誇れる場所にいたします」
明は深く頷いた。
「それでこそです。僕も全力を尽くします」
三人の間に、静かながら確かな結束が芽生えた。
障子の向こうで、ししおどしがこつんと鳴る。
それは、この館に新しい時代が訪れる兆しのように響いた。
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