第10話 由乃ちゃんと冴島先輩と早川くん


「冴島さん、俺もいっすか?」


 週が明けて月曜日。この日も食堂に冴島先輩の姿を見つけて二人仲良くランチタイム———の、はずだった。この男が来るまでは。


「あぁ、早川くん。珍しいね」


 冴島先輩は一瞬驚いた表情見せて、すぐにそれを笑顔の裏に隠した。どうぞ、と手のひらで私の隣の席を指し、早川を私達の世界に招き入れた。


「あざっす」


 ちゃんと“ありがとうございます”と言え。心の中でそんな悪態を吐きつつ、早川の邪魔にならないように日替わり定食のトレーを端にずらした。

 そんな小さな気遣いに気がつくほど繊細な男ではないことくらい理解しているけれど、さも当たり前のように空いたスペースに早川のトレーが置かれると、礼のひとつも欲しくなってしまう。


「おっ、花井も日替わりじゃん」

「だいたいみんな日替わりでしょ」

「冴島さんはとろろ蕎麦だぞ」

「知ってるよ。見れば分かるもん。冴島先輩以外の話」

「じゃあみんなって誰だよ。名前言ってみろ」

「はぁ?小学生じゃないんだから」


「はいはい、ストーップ」


 冴島先輩が私と早川の顔の間に手を入れて、私たちの視界を遮った。


「二人とも仲が良いのは分かったから、そんなことで言い合いしないの」


 仕方ないなぁと笑う先輩に、頬を膨らませて無言で抗議するけれど、それさえふわりとした笑顔で包まれてしまえばもう牙を抜かれてしまったも同然。大人しく目の前の食事に向き合うしかなかった。


 今日の日替わり定食のメインはアジフライ。手作りのタルタルソースが絶品で、たっぷり付けて食べるのが好き。サクッと歯切れの良い音を立てながら齧り付き、美味しさに目を細めた。


「なんだ、ちゃんと食ってんな。ちょっと安心したわ」


 人がアジフライとタルタルソースのマリアージュを楽しんでいる時に。


「なに?毎日ちゃんと食べてるし」

「心配してたんだよ。花井、急に痩せた気ぃするし。冴島さんも思いません?」


 早川が私と同じアジフライをつつきながら冴島先輩の顔を見たので、私もその視線につられて先輩の方を向いた。


「確かに。言われてみればそうかも」

「えー…?ちゃんと食べてますよ?いつも一緒にお昼ご飯食べてるじゃないですか」

「花井って今体重何キロ?」

「早川くん、それは聞いちゃダメでしょ」


 ほんとうに。冴島先輩が居なかったらと思うと、ほんとうに、もう。

 それはそれとして、確かに少し痩せた自覚はある。体重計を持っていないから、具体的な数字でどうなっているかは分からないけど。そしてその原因に心当たりしかないんだから、この会話はどうにも心地が悪い。


「人ってさー、三大欲求ってあんじゃん。そのバランスが崩れると、特定の欲求が過剰になりやすいらしい」

「んぶっ、ごほっ、…っげほ」

「ぅおっ、汚ねえなっ」


 突然なんて事を言い出すんだこの男は。ここは会社で、社員食堂で、お昼時で、しかも先輩の前で。同僚を性欲の塊みたいに言うなんて。食欲も忘れてそんなことばっかりしてると思ったら大間違…、おおまちがい、あながち間違いではないけども、だからって。

 口から溢れた米粒をおしぼりで拭きながら、まだ続きを話そうとする早川を恨めしげに横目で睨みつけた。


「んで、花井」

「もうやめて、そんな話」

「そんな話ってなんだよ。花井が最近寝不足っぽいから、睡眠欲のせいで食欲落ちてんのかなって思ったって話じゃん」

「なんだ、そっちか」

「そっち?」


 なんだー、そっちかー。それならそうと早く言いなよ早川くん。


「あー…、まぁ、寝不足はあるかなぁ。この週末はいっぱい寝たけど」


 そっちってどっち、という早川の質問には聞こえないフリをして、平静を装い寝不足というワードだけを拾い上げた。

 私たちのやり取りを聞きながら蕎麦を食べていた先輩がお箸を止めて、心配そうな表情を浮かべた。


「寝不足……、それって事故物件の影響?」

「は!?あのマンション…って、おい、マジ勘弁してくれよ。変なの連れて帰ってたらどうしてくれんだよ」

「……え?早川くん、由乃の家行ったことあるの?」


 一瞬でシンと静まり返ってしまったテーブルに、早川が水を飲み込む喉の音だけが鳴っていた。


「あー、や、前に一回だけですよ?風邪ひいて休んでたときに、早川に飲み物だけ持ってきてもらったんです」

「そーだそーだ。熱あるっつーんで、買いに行けないからって仕方なく」


 妙な誤解を招きたくないから説明しているのに、妙な誤解を招きそうな事しか言えないのがもどかしい。

 冴島先輩は納得したのかしていないのか、ふーんと短い相槌のみを打って、私と早川の顔を交互に見た。


「ま、いいけど。あんまり深く聞かないようにするね」

「先輩っ、ほんとに、そういうんじゃないですからね!?」

「そうっすよ!まじで俺らただの同期なんで!」


 強く否定すればするほど、冴島先輩の中でそういう事になっていく気がして、けれど否定しないわけにもいかないし。


「もう早川うるさいっ。食べ終わったんならどっか行ってよっ」

「なんだよその言い方。言われなくてもそうしますぅー!」



 空になった皿が乗ったトレーを手に持った早川がさっさと返却口に向かって歩く背中をしばらく見つめて、私と冴島先輩はようやく二人で向き合うことができた。


「同期と仲良くするのは悪いことじゃないよ」

「だから違いますってば」


 すっかり冷めてしまったアジフライ。出来立てはあんなに美味しかったのに、今は衣から身へと移ってしまった油の匂いが口の中に広がるだけだ。


「由乃はさぁ…」


 もうほとんど汁しか残っていない器から薬味をお箸で掬いながら、それを口に運ぶでもなくただ器の中でくゆらせる先輩が口を開いた。何ですかと返事をする代わりに先輩の顔を見つめると、あまりにも真剣な色をした瞳に見つめ返されて息が詰まった。


「由乃は私のかわいい後輩なの。気が強い割に押しに弱いところも、考え事してると何も手に付かなくなる要領の悪さも、やましい事があると顔に出ちゃうところも、全部かわいいよ。だから由乃が困ってたら助けたいって思うし、酔っ払ったら介抱したい。体調が悪い時は看病させてほしい」


 淡々とした声で紡がれる言葉は音として耳に入ってくるのに、その意味を理解する前にどんどん反対側から抜けていってしまう。つまるところ何を言われているのか分かっていない私に、先輩は至極簡単な質問をぶつけてきた。


「いつ誘えばいい?」

「……え?」

「今度誘ってくださいって言ったよね。今度っていつ?」


 先週末、幽霊ちゃんのことがあって、先輩からの誘いを断っていたことを思い出した。今度誘ってくださいなんて、よくある断り方。よくあるフレーズ。冴島先輩はもうそれを聞きたくないらしい。


「金曜日、はどうですか」


 何も考えずに出た結論をぶつけると、先輩はいつもの笑顔に戻っていた。まるで子供を甘やかすような、そんな笑顔。

 先輩は昼休憩の終わりが迫っていることを知らせる腕時計を一瞥し、私に早く食べてしまうよう促した。




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