第4話 つまらないと彼は離れた
「……好きにしろ」
囁くような声が出た。
ナイジェルがわずかに目を見開いた。
そして、そっと距離を詰めて、唇が重なる。
最初は浅く触れるだけだったキスが、次第に熱を帯びていく。
舌が触れ合い、絡み合い、息が止まりそうになる。
鼻先がかすめるほどの距離で、口づけは貪欲に、深く、もっと深く、溺れていく。
身体が重なり、背中が地面に落ちる感触。
上から覆いかぶさるナイジェルの体温が、肌越しにじわりと広がってくる。
「……っ、ぁ……あ……ん」
思わず、甘い吐息がこぼれる。
声を出したら、止まらなかった。
「っ……ふ、ん……」
ナイジェルの唇が喉元を這うたび、背筋がびくびくと震える。
耳たぶをかすめる息遣い、腰に添えられた指が衣服の上からでもわかるほど熱くて、じんじんと体の芯が痺れていく。
頭の中が、ふわふわして、気持ちよすぎて、おかしくなりそうだった。
「や……ぁ、ナイジェル……」
「……可愛い。そんな声、俺にしか聞かせないで」
ナイジェルの低い囁きが、耳元で震える。
指先が喉元をなぞり、震える息を追いかけるようにキスが落ちる。
愛おしげに囁く声が、蕩けるような熱を含んで胸の奥まで染みこんでくる。
「団長、こんな顔……俺以外に見せちゃだめですよ」
「……見せてない」
「……じゃあ、もっと見せて? 俺だけに」
「……っ、だから……あっ、も……♡」
まるで、求め合うことが当然のように、熱が馴染んでいく。
それが、嬉しかった。
ナイジェルが、俺を求めてくれること。
自分という存在を、美しいとか役に立つではなく、この体と心ごと、抱きしめようとしてくれることが。
「団長……」
囁く声が愛おしくて、目を閉じた。
もう、堕ちてもいい──そう思った。
矜持も、忠誠も、戦場で塗り固めてきた仮面も、彼の前では、全部どうでもよくなる。
ナイジェルの顔が、ほんのわずかに離れる。
──目が合った。
その瞳に宿っていたのは、欲情よりも深い、何か強い熱。
それは、この先へ進むための答えを待つまなざしだった。
体を重ねたまま、彼は動かない。
俺の言葉を──ただ、それだけを待っている。
視線を受け止めきれず、まぶたを伏せる。
矜持なんて、最初からなかったのかもしれない。
意味を求めて生き延びてきただけの、抜け殻だったのではないか。
ナイジェルの体温に包まれながら、
その思いが胸に刺さる。
そして、言葉が零れ落ちた。
「……身体とか、矜持とか……本当は、どうでもいい。これで気が済むなら……好きにすればいい」
その言葉は、こぼれるように、ぽつりと零れた。
一瞬で、すべての熱が凍りついた。
ナイジェルの動きが止まる。
数秒の沈黙。
「──つまんない」
触れていた体が離れる。
「自分のこと、大事にしてないくせに。そんなもん、奪っても嬉しくない」
その言葉が胸に刺さった。
けれど、何を言われているのか、すぐにはわからなかった。
「……どういう意味だ」
問う声が、かすかに掠れる。
ナイジェルは少し目を伏せ、息を吐いた。
「わからないなら、ますます続けられないですね」
淡々とした声音。
けれど、その奥に、何かを押し殺したような熱があった。
それが余計に、胸を締めつけた。
言葉を返そうとしたが、喉が動かなかった。
ただ、残された温もりだけが、じわりと指先に滲んでいた。
***
翌朝、薄い光が森に差し込み始めたころ、俺はまだ目を閉じたまま、じっとしていた。眠ったのかどうかさえ、わからない。
夢のような、現実のような、ただ冷たい時間が通り過ぎていった気がする。
……変わらない。
目を開かなくても、そう思った。
矜持も、身体も、全て捨ててもいいと思ったのに、
俺はまたこうして、朝を迎えている。
何も感じない空っぽの胸を抱えて、
それでも身体だけは任務の続きを選んでいた。
──何も変わっていない。
変わらなかったのではなく、変われなかったのだ。
***
「……あれ? 眠れませんでしたか?」
火を熾しながら、ナイジェルが何気なく問いかけてくる。
ただの問いかけなのに、ひどく痛い。
顔も、声も、ぜんぶ熱を帯びて痺れている。
「つまんない」の一言が、まだ胸の奥で焼けていた。
「……いや。寝た」
短く答えると、彼はそれ以上深く聞こうとはしなかった。
遠くの森で、小枝が折れるような微かな音がした。
思わず振り返るが、気配はない。
ナイジェルも一瞬、焚き火越しに視線を巡らせる。
「……反乱派じゃないといいですね」
冗談めかした口調でそう言って、彼は笑う。
それから、沸かした湯をカップに注ぎながら、そっと俺の前に差し出す。
「これ、薬湯。温まりますよ」
気のせいかもしれない。
だが、昨日の夜よりもずっと──声も目線も優しい気がした。
無言で手を出して受け取って。
ただ、心はひどく戸惑っていた。
なぜ、優しい。
突き放したのはお前だろう。
こんなもの、受け取る気なんてなかったのに。
薬湯はかすかに甘く、舌に残る苦みがじわじわと染みた。
飲むほどに、冷えた胸の奥がほどけていくのが悔しかった。
飲み終えても、湯の温もりが胸に残る。
まるで、指先をそっと包まれているようだった。
その感触だけが、しばらく離れなかった。
──だが、それも長くは続かなかった。
「……見えました。あれですね」
ナイジェルが手綱を引き、顎で示した先。
木立の隙間から、石造りの古い城館が、ゆっくりと姿を現す。
風が止んだわけでもないのに、空気が変わった気がした。
胸の奥に残っていた熱も、いつしか静かに引いていく。
心は、まだ乱れていた。
壊れかけのまま、形も整わない。
──それでも。
任務に向けて、頭はすでに動き始めていた。
***
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