第2話『十六の冬、散った紅』



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### **番外編 『十六の冬、散った紅』**


**【何事もなかったかのような朝】**


菜々美の悲鳴が夜気に溶けて消えた朝。彼女が、まだ舞妓として店出し(デビュー)して間もない、十六の冬のことだった。

置屋『桔梗屋』には、障子越しの冬の光が静かに差し込み、何事もなかったかのような偽りの日常が始まっていた。味噌汁の匂い、かすかな炭の香り、食器の触れ合う音。誰もが昨夜の出来事を記憶の底に沈め、口にしない。それが、この美しくも腐りきった世界で生き抜くための、暗黙の掟だった。


そこに、菜々美が現れた。

幽鬼と見紛うほどの、覚束ない足取り。顔は蝋のように青白く、目の下には夜の淵を覗き込んだかのような深い隈が刻まれている。しかし、その双眸は燃え尽きた灰のように白茶けて、何の光も映してはいなかった。襟元はわずかに着崩れ、生気なく垂れた指先が痛々しい。彼女は誰とも目を合わせず、ただ黙って自分の膳の前に滑り込むように座った。


その痛ましい姿に、誰もが息を呑む。

あまりにも幼い少女の魂に刻まれた、あまりにも深い傷跡。

気まずい沈黙が、湯気の立つ食卓に重く垂れ込めていた。


**【無邪気な刃、苦い笑い】**


その鉛のような沈黙を破ったのは、まだ世間知らずで、残酷なほど無垢な、菜々美より一つ年下の舞妓だった。

彼女は、昨夜の客である轟社長が、年の割に若い娘ばかりを指名することを思い出し、悪気なく、しかし最も鋭利な刃となる一言を、ころり、と場に転がした。


「あの社長はんて、もしかして、**ロリコン**なんか?(笑)」


瞬間、場の空気が凍てついた。

数人の若い芸妓が、引きつったように**「くっ…」**と喉の奥で音を立てる。それは、笑いを堪える声ではない。極度の緊張が神経を焼き切り、悲鳴になることもできずに漏れ出た、痙攣にも似た音だった。


**【姉さんの慟哭、共有する痛み】**


凍りついた空気を叩き割ったのは、置屋で一番の姉さん芸者である菊乃だった。

カツン! と乾いた音が響く。彼女が、箸を膳に叩きつけた音だった。

低い、しかし内側から震える声で、年下の舞妓を射抜くように叱りつけた。


**「…やめてーな!」**


その声には、怒り以上に、慟哭にも似た深い悲しみが滲んでいた。

「口にする言葉くらい、選びよし…!」


菊乃は、叱りながらも、その視線はいつしか菜々-美の方へと向けられていた。そして、まるで自分自身の罪を懺悔するように、かき消えそうな声で呟いた。絞り出すような、ひと言だった。


**「…まだ、十六やないか。佐知子は…」**


本名で呼ばれたその言葉は、見えざる重りを伴って、置屋の女たちの心臓にずしりと突き刺さった。

そうだ、彼女はまだ、大人たちの庇護の下で無邪気に笑っているべき、ただの子供なのだ。

自分たちが昨夜、耳を塞ぎ、見殺しにしたのは、一人の芸妓ではない。まだ紅もろくに似合わぬ、たった十六の少女の魂だった。


その事実に、もう誰も耐えられなかった。

叱られた舞妓は、自分が放った言葉の本当の意味を悟り、わっと声を上げて泣き始めた。引きつった笑いを浮かべていた芸妓たちも、ばつが悪そうに顔を伏せ、その肩が小さく震えている。

昨夜、見て見ぬふりをした罪悪感が、濃い霧のように置屋全体を重く支配した。


菜々美は、そんなやり取りを、ただ人形のように無表情で見つめていた。

菊乃の優しさも、他の芸妓たちの同情の涙も、もはや彼女の凍てついた心には届かない。


彼女は、ただ黙って、味のしない白米を、生命維持のためだけの作業のように口に運んだ。

十六の冬に散らされた紅は、もう二度と、元の鮮やかな色には戻らないのだと、その空っぽの頭で静かに悟りながら。


この日から、桔梗屋の女たちの間には、決して言葉にされることのない、共有する痛みと、消えない罪の意識という歪んだ絆が、深く、深く刻み込まれた。

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