第29話「智の罠」
袁紹の決断は、献帝の「最速の理(ことわり)」にとって、天下統一を早める絶好の機会となった。洛陽の玉座の間では、献帝の命令を受け、荀彧、賈詡、曹操の三人の軍師が、袁紹の「優柔不断な本性」を最大限に利用するための策を練り上げていた。
玉座の間には、地図に広がる蝋燭の影が、不気味なほど速く揺れていた。壁に立てかけられた武具が、その光を鈍く反射する。玉座の冷気が室内を満たす一方、地図を囲む軍師たちの知略の熱が、その冷気を押し返していた。時折、蝋燭の芯が小さく爆ぜ、その音の後に、垂れた蝋の滴が地図の端を濡らす。この静けさの極限で、遠くの兵舎から軍馬の嘶きが響き、緊張の対比を生んでいた。
「…陛下。袁紹の兵力は無視できません。正面からの衝突は、我らが兵を疲弊させる。我々は、彼の決断の速さがもたらした『隙』を突くべきにございます」
曹操は、地図を睨みながら進言した。彼の瞳には、すでに戦場の全体像が描かれている。
「…曹操殿の言う通りだ。我々の目標は、袁紹の軍を『撃破』することではない。『自壊』させることだ」
賈詡は、袖で口元を隠し、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。彼の指先は、地図上の冀州と洛陽の間を、獲物を狙う蛇のように滑っていく。
献帝は、静かに二人の言葉を聞いていた。彼の脳裏には、新選組時代に培った、「最短距離を避けることで、最も効率的な結果を生む」という思想が響いていた。
(袁紹は、誇りで動いている。その誇りを傷つけ、内部から崩壊させる。それが、最も血を流さぬ「最速」だ)
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三人の軍師が練り上げた策は、複雑で、かつ冷徹なものだった。献帝の「誠」の旗の下、それぞれの智が、互いの不足を補い合う、まさに「最速協働」の結晶だった。
賈詡が主導したのは、袁紹陣営の不和を拡大させる情報操作だった。
「…袁紹は、家臣団の意見がまとまりませぬ。田豊は主戦論を、審配は持久論を唱えている。我々は、この亀裂を深める」
賈詡は、そう言って、偽の密書を作成させた。その内容は、「田豊がすでに洛陽に密使を送り、妻子を保護させている。曹操軍の進軍の道筋を密かに流すことで、自己保身を図っている」という具体的なもの。密書の紙質はわざと古びさせ、字形を田豊本人の筆跡に似せた。
夜陰、洛陽の城門を出た伝令は、隠密裏に袁紹軍の斥候に接触し、偽造密書を渡した。情報が流布する中で、袁紹軍の兵士たちは不安げな顔を見合わせ始めた。「田豊殿が内通しているらしい」「二刻過ぎても評定はまとまらぬ」と囁かれ、兵の士気は水が引くように落ちていった。
「嘘に真実を織り交ぜる。田豊の献策が常に正論であるという実績こそが、この嘘を真実にするのです。袁紹は、疑心暗鬼の塊にございます。彼の誇りが、この偽の密書を『真実』として受け止めさせるでしょう」
賈詡の言葉には、人間の心理の闇を操る、毒のような冷たさがあった。
曹操は、賈詡の策を受け、軍事的な圧力を加える兵糧攻めと極限の時間管理を提案した。
「…袁紹軍の兵糧を運ぶ隊に頼っている。我が軍は、呂布殿の機動力を借り、輜重隊をピンポイントで叩く。兵糧を失えば、兵士の士気は一気に崩壊します」
さらに、曹操は、袁紹の優柔不断な本質を突く、新たな仕組みを導入した。過去、大軍を相手にした戦例を脳裏に描きながら、彼は声を強めた。
「…我が軍は、敵の評定に『決裁期限24刻の評定の仕組み』を設けます。降伏勧告状に『24刻以内に返答がなければ、我が軍は総攻撃を開始する』と明記する。優柔不断な本質を持つ袁紹は、この24刻で確実に自滅します。一刻(とき)ごとに袁紹の迷いは深まり、その迷いが軍全体を腐らせる。我々は袁紹の心を時間で攻め立てるのです。歴史が証明しております。優柔不断の軍は、時間で滅びる」
曹操の策は、献帝の「最速の理」に、極限の「時間管理」という要素を加えた。
荀彧は、この冷徹な策に、「誠」という大義の光を当てる、大義による内部の分断策を提案した。
「…陛下。我々は、袁紹の兵に、檄文を送るべきでございます。我々の檄文は、袁紹の掲げる『名門の正義』が、いかに腐敗しているかを暴き、陛下の『誠』と対比させます」
荀彧は、筆を取り、その場で檄文の骨子を書き出した。
> 「汝ら、袁紹の兵よ、剣を収めよ。
> 袁紹は民の汗を奪い、私利私欲のために兵を動かす。彼が掲げる名門の名は、すでに汚濁にまみれている。
> 汝らの飢えは、彼らの贅沢の糧と化している。
> しかし、献帝は血を流さず、天下の安寧を守らん。
> 義ある者は剣を収め、誠の旗の下に集結せよ。
> この誠こそ、漢王朝再興の礎なり」
洛陽の市場では、この檄文が読み上げられ、農夫や兵士がざわめく。「献帝は血を流さぬと…」という声が広がり、大義の浸透を物語っていた。荀彧の提案は、袁紹の兵の心を揺さぶり、曹操の軍事行動と賈詡の情報操作を、より効果的なものにする、まさに「智と誠の融合」だった。
献帝は、三人の策を聞き終えると、静かに目を閉じた。彼の脳裏には、新選組時代、即断即決を迫られたあの瞬間が蘇る。あの時のためらいが、一人の敵ではなく、見逃せたはずの味方の命を奪った。その記憶が、彼の中で「ためらった刹那に失われた命」という言葉で反復され、彼の「最速」を駆動させている。
(袁紹は、己の誇りで動いた。その結果、彼の陣営は、内側から崩壊する。この策は、血を最小限に抑える、最も効率的な「最適解」だ)
献帝は、静かに、しかし力強く、命じた。
「…その策を採用する。荀彧、賈詡、曹操。お前たちの智、そして誠を信じる。ただちに、作戦を実行せよ」
献帝の命令が下された瞬間、洛陽の玉座の間に、風が吹き抜けた。それは、天下の歴史が、再び、献帝の「最速の理」によって動き出したことを示していた。袁紹の「自壊」は、もう始まっている。
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