第10話 月の便り

 春の夜。


 風はやわらかく、街路樹の桜が静かに揺れていた。

 昼間の喧騒が消えた町に、月は静かに浮かび、淡い光を地上に落としていた。


 丘の上の古びた郵便局に、月見が現れる。

 銀色の制服に白い帽子。肩には、まだ届けられていない言葉が詰まった皮の鞄。


 その夜、彼が手にしていたのは、一通の封筒。

 淡い水色の封筒に、少しだけ滲んだ文字。


 差出人:姉・美和(みわ)

 宛先:妹・紗季(さき)




 紗季は、海外留学を終えて帰国した後、都内で一人暮らしを始めた。

 姉妹は以前のように頻繁に連絡を取ることもなくなり、気づけば1年以上が過ぎていた。


 美和は、何度か連絡しようと思った。

 けれど、スマホを手に取っては、画面を見つめるだけで終わってしまう。


 「元気?」だけでは足りない気がして。

 「会いたい」と言うには、少し照れくさくて。


 悪いことをしたわけではない。

 でも、何かが遠くなってしまった気がしていた。


 思い返せば、紗季が留学に旅立つ前夜、二人は少しだけ言い合いになった。


「本当に行くの?大丈夫なの?」

 心配だったからこそ、言葉が強くなってしまった。

 紗季は


「大丈夫」

 とだけ言って、背を向けた。


 それ以来、どこかぎこちない距離が生まれてしまった。



 そんな夜、美和は手紙を書いた。

 便箋に向かって、言葉を探しながら、何度もペンを止めた。

 「会いたい」「ごめんね」「元気?」

 どれも少し違う気がして、結局、封筒に入れたままポストには入れられなかった。


 その手紙は、月見の鞄の中にそっと収められた。




 その夜、紗季は夢を見た。

 夢の中で、彼女は姉と並んで歩いていた。


 昔よく通った商店街。懐かしい匂いと、柔らかな光。

 小さな文房具店、よく通ったパン屋、二人で笑い合った記憶がよみがえる。


 美和がぽつりと言う。


「最近、どうしてる?」

 紗季は少し驚いたように顔を上げる。


「…忙しいけど、元気。お姉ちゃんは?」

 美和は笑って言う。


「なんかね、ちょっと寂しかった。紗季が遠くに行った気がして」

 紗季は立ち止まり、姉の手を握る。


「私も、同じだった。なんか、声かけづらくて…でも、ずっと会いたかったよ」

 美和は、少しだけ涙ぐみながら頷いた。


「私も。あの夜、言いすぎたかもしれないって、ずっと思ってた」

 紗季は微笑みながら言う。


「ううん。私も、ちゃんと話せばよかった。…でも、今こうして話せてよかった」

 ふたりは、言葉少なに歩き続ける。


 それだけで、心が少しだけ近づいた気がした。





 翌朝、紗季は目を覚ました。


 夢の記憶は曖昧だったが、なぜか姉の声が耳に残っていた。

 部屋の窓から差し込む光が、どこか懐かしく感じられた。


 その日、彼女はスマホを手に取り、短いメッセージを送った。


『お姉ちゃん、今度ご飯行こうよ。久しぶりに』

 返信はすぐに届いた。


『うれしい。いつでもいいよ』

 その言葉を見て、紗季はふっと笑った。

 何かが、少しだけほどけた気がした。

 そして。。。


 ほどなく美和のスマホの着信音が鳴る。





 その夜、月見は丘の上の郵便局に戻っていた。


 彼の仕事はまた一つ、終わった。

 だが、鞄にはまだ、誰かの心に届かなかった言葉が残っている。


 今夜もまた、月の光に乗せて、

 彼は静かに歩き出す。



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