幕間 荒野の少年
午後の陽が斜めに差し込み、潅木のあいだから金色の筋がこぼれていた。風には、乾いた草の匂いが混じっている。
ノアディスは罠のそばにしゃがみ込み、縄がしっかり締まっているかを確かめた。兎が一羽、きつく絡め取られたまま、必死に足を蹴っている。
彼は無言で獲物を持ち上げ、手慣れた手つきで静かに息の根を止めた――今日の昼食は、これで確保だ。
脛の傷が、まだ鈍く痛む。二日前の「記念」として残ったものだ。
あの日、うっかり熊の縄張りに踏み込み、派手に爪を引っかけられ、ズボンも皮膚もまとめて裂けた。
治癒魔法を少しだけ知っていたことが、不幸中の幸いだった。まだ幼く魔力量も乏しい身では、血を止め、傷口がこれ以上開かないように塞ぐのが精一杯だ。
これ以上深ければ、どうにもできなかっただろう。
日が傾きかける頃になると、彼は決まって見晴らしのいい場所を選んで待つ――どこにいようと、アエクセリオンは必ず彼を見つけてくれるからだ。
その日も、巨竜は時間どおりに空から舞い降りてきた。銀灰の巨大な影が、草原一帯を覆い尽くす。
竜は頭を垂れ、彼の様子を確かめるように、舌先でこびりついた血を舐め取った。まだ立てると判断してから、ようやく背を低くし、ノアディスを背に乗せて屋敷へと運んでいく。
ノアディスには、そもそもアエクセリオンが自分に何を学ばせたいのか、分からないままだった。
毎朝、アエクセリオンは彼をこの荒野へと連れてきて、日没まで帰してくれない。
屋敷には使用人がいて、柔らかなベッドがあり、温かいスープと暖炉の灯りがある――だが昼の間、それはすべて「他の誰かのもの」であって、彼のものではない。
彼はもう、水場の探し方も、食べられる木の実の見分け方も覚えた。
罠を仕掛けて獲物を捕まえることもできる。
それでも、胸の奥にこびりついた孤独は、どうしても消えてくれなかった。
周囲は静まり返り、風が草むらをなでる音だけが響いている。
ノアディスはときどき思う――アエクセリオンは、どこかに隠れて自分を見張っているのではないか、と。
あの時のように。崖から足を滑らせた瞬間、叫ぶ間もなく、銀青の巨影が空から舞い降り、半ば落下した彼の身体を受け止めた。
もし、ある日を境に、あいつが現れなくなったら――。
もし、本当にいつか、「生きるか死ぬか」を自分一人に委ねる日が来たら――。
ノアディスは、手にした獲物を握り締める。胸の奥に、言いようのない焦燥がじわりと広がった。
そのときだった。
幼げな歌声が、風に乗って聞こえてきた。
ノアディスは目を丸くした。――誰か、いる?
ここへ送られるようになってから、人と出くわしたことなど一度もない。
腰に兎をくくりつけ、彼は息を呑んでナイフを抜くと、音のする方へ足を向けた。
歌声は、小川のほうから聞こえてくる。彼は足音を殺し、息を潜め、これまで身につけてきたやり方で、そっと近づいていく。
歌詞の意味は分からない。口ずさみにしては奇妙な旋律で、どこか、どうしようもない寂しさと哀しみを孕んでいた。
林の陰から、そっと様子をうかがう。
小川のほとりに、子どもが一人、しゃがみ込んでいた。うつむいたまま、小さな声で歌っている。こちらの気配には、まだ気づいていないようだ。
淡い紫の短い髪。毛先は不揃いで、適当に切りそろえられたように見える。全体的にぼさぼさで、年齢は自分と同じくらいだろうか。
ノアディスは考える。
――この子も、自分と同じように、ここへ捨てられたのか?
そう思った瞬間、足が、勝手に一歩踏み出していた。
枝葉をかき分ける音が、かすかに鳴る。
子どもはすぐに歌をやめ、顔を上げてこちらを見る。
ノアディスは一瞬だけ固まり、慌てて手を振った。
「ご、ごめん! 邪魔するつもりはなかったんだ。ただ……すごく、きれいな歌だったから。」
彼は懸命に、笑顔を作った。――もう、笑い方なんて忘れてしまった気でいたのに。
目の前の子を見つめながら、ノアディスの胸には、奇妙な「同族意識」のようなものがふっと灯っていた。
それが何なのか、彼自身、気づいてはいない。ただ、これ以上、この子にあの寂しそうな顔をさせたくないと思った。
もしかしたら、お腹を空かせているかもしれない。そう考えたノアディスは、自分の獲った兎を分けようと提案してみる。
意外なことに、紫髪の子は首を横に振った。肉は食べない、と。
「じゃあ、お魚は?」と彼は聞く。
「……お魚なら、平気。」
紫髪の子は、こくりと頷いた。
ノアディスは、魚を捕るのが嫌いだった。釣りのやり方など知らないから、川に入って手づかみするしかない。全身ずぶ濡れになって、何度も失敗する。やっと捕まえても、内臓を傷つけないように慎重に捌かなければ、すぐに苦くて不味くなる。
それでも、その日、彼は迷わず水の中へ足を踏み入れた。
「焼き魚には自信あるんだ」と言いながら。――本当は、嘘だったのに。
それでもその時ばかりは、火を起こすのも、魚を捌くのも、焼き加減を見るのも、いつも以上に気を配った。
焦げ目のついた皮の内側がふっくらと膨らみ、香ばしい匂いが立ち上るまで、何度も串を返し続けた。
紫髪の子は魚を受け取ると、おそるおそるひと口かじった。そして――ほんの少し、小さな笑みを浮かべた。
ノアディスは、はっと息を呑む。すぐに、つられるように笑っていた。
胸の中に、ぽっと火が灯る。
冷たい荒野に、小さな焚き火が生まれたような感覚だった。
アッシュは長椅子の上で寝返りを打ち、薄暗い部屋を見上げた。
あの午後の光景は、エルセリアにあの話をされるまで、すっかり忘れていた――。
あの子の目は、琥珀色だった。瞳孔の近くに、かすかに赤みを帯びていた。
あんな目をした人間を、彼は他に知らない。
エルセリアの瞳は、緑だ。決して彼女ではない。
あの子は――リゼリアだった。
あの時の彼は、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。
翌日もいつものように荒野へ放り出され、小川のそばで長いこと耳を澄ませたが、歌声が聞こえてくることは二度となかった。
その記憶は、そのまま心の底へ沈み、いつしか蓋をされていた。
それがどうして、こんな形で――。
目を閉じると、あの夜の光景が蘇る。
湿った草の上に彼女を押し倒し、魔導銃の銃口を額に押し当てた。
本気で引き金を引くつもりだった。
けれど、真っ直ぐにこちらを射抜いてきた、あの強情で、どこか挑みかかるような瞳が、彼の指を止めた。
あれは、アエクセリオンを殺した犯人の目ではない。
撃ったところで、何ひとつ変わりはしない――そう思った。
アッシュは手で顔を覆い、長く息を吐いた。
……撃たなくて、よかった。
だが彼女は、今も何も話そうとしない。
何を隠しているのか。
アッシュは答えを知りたい。
問いただしたい――。
だが同時に、恐れてもいる。自分の耳に届くのが、最悪の真実であるかもしれないことを。
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