きみは笑っているか?
有賀冬馬
第1話
ひっそりとした下宿の部屋。窓から差し込む夕日は、僕の部屋には似合わないほど明るく輝いていた。いや、部屋が暗いんじゃない。僕の心が、暗いんだ。手の中にある、くしゃくしゃになった紙切れ。そこに書かれた数字は、何度見ても変わらない。プリントアウトされた成績表、そこに並ぶいくつものバツ印。それが、僕の前期末試験の成績だった。
「…うそだろ」
声に出しても、誰も答えてくれない。スマホを手に取って、親友に愚痴のLINEを送ろうとして、やめた。送ったところで、きっと「次頑張ればいいじゃん」って、軽い返事が返ってくるだけだ。そんなの、もう聞き飽きた。わかってるよ、次頑張ればいいってことくらい。でも、今回はどうしても、ダメだった。いくら頑張っても、どうしようもなかった。
ベッドにひっくり返り、天井を見つめる。白い天井には、染み一つない。それがなんだか、自分だけが真っ黒な染みになったみたいで、ますます気分が沈んだ。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。いや、むしろ、僕の存在が消えてしまえばいい。そんなことばかり考えていた。
どのくらいそうしていたんだろう。喉が渇いて、体を起こした。水でも飲もうか、と机に向かって歩き出す。その途中で、ふと壁にかかっている鏡が目に入った。この下宿に引っ越してきたときから、なぜか壁にかけられていた、古ぼけた木の額縁の鏡。誰も使うことなく、ずっとそこに置かれていた。
鏡には、ひどく疲れた顔をした僕が映っていた。ぼさぼさの髪、どんよりとした目。口元はへにょりと曲がっている。鏡の中の僕は、まるで死んだ魚みたいだ。それがなんだかおかしくて、いや、おかしくなんかない。むしろ、悲しくて、情けなくて、僕は鏡の中の僕に話しかけてみた。
「おい、お前。なんだその顔。もっとシャキッとしろよ」
もちろん、返事なんてない。当たり前だ。鏡の中の僕は、ただ僕の真似をしているだけだ。わかっているのに、僕はまだ話し続けた。
「お前さ、本当はもっと、かっこいい顔してるはずだろ? いつもはさ、もっと笑ってるはずだろ? なのに、なんだよ、その顔…」
そう言って、僕は自分の顔を鏡にぐいっと近づけた。鏡の中の僕も、同じように顔を近づけてくる。その表情は、やはり変わらない。相変わらず、情けなく、死んだような目をしていた。
その時だった。
鏡の中の僕が、ふっと笑ったんだ。
「…え?」
僕の口から、間の抜けた声が漏れた。信じられない、信じたくない。だって、僕は笑っていない。なのに、鏡の中の僕は、にこっと、それはもう眩しいくらいに、満面の笑みを浮かべている。そして、次の瞬間、鏡の中の僕が、右目でウインクをした。
「は……?」
全身が固まる。心臓がドクン、と大きく鳴った。鏡の中の僕は、ウインクをしたまま、僕をじっと見つめている。その目は、少しだけからかうような、でも、どこか優しそうな光を宿していた。
幻覚だ。そう思った。疲れているんだ。きっと、昨日の夜からほとんど眠れてないし、頭がおかしくなったんだ。そうに違いない。僕は慌てて鏡から顔をそむけた。心臓はまだドクン、ドクンと大きな音を立てている。部屋の隅にある椅子に倒れ込むように座り込み、大きく深呼吸をした。
落ち着け、僕。あれは幻だ。疲れているだけだ。大丈夫。
何度もそう自分に言い聞かせ、ようやく少し落ち着いてきた頃、僕は再び鏡に目をやった。鏡は、さっきと同じ場所に、同じようにかけられている。そして、鏡の中には、やはりひどく疲れた顔をした僕が映っていた。笑ってもいないし、ウインクもしていない。ただ、呆然と僕を見つめているだけだ。
「…やっぱり、気のせいか」
そう言って、僕は小さく笑った。なんだ、なんだよ。びっくりさせやがって。僕の頭は、もう完全にイカれてしまったらしい。そう自分を納得させ、僕は立ち上がった。もう、鏡なんて見たくない。こんな気持ち悪いもの、誰が部屋に置いていったんだ。
…いや、でも。
鏡から目をそらしたはずなのに、なぜか、もう一度見てみたくなった。さっきの、あの笑顔とウインクが、幻なんかじゃなかったと、心のどこかで信じたい自分がいたのかもしれない。僕は、ゆっくりと鏡に近づいていく。そして、意を決して、鏡の中の僕をまっすぐに見つめた。
…何も起こらない。
当たり前だ。そうだよな。あれは、ただの幻覚だったんだ。僕は、少しだけがっかりした。そして、同時に、少しだけ安心もした。もし、本当に鏡の中の僕が、僕の知らないところで笑い出したりしたら、それこそ本当に怖すぎる。
僕は、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。すると、また、あの時のように、自分の顔が、だんだんと歪んでいくように見えた。いや、違う。僕の顔が、鏡の中で、またあの時のように…
「やめろ…」
僕は鏡に手をかざし、目を閉じた。もう、見たくない。見たくないんだ。お願いだから、何も映さないで。お願いだから…
どれくらいそうしていたか、わからない。僕は、おそるおそる目を開けた。そこには、やはり、いつもの僕の顔があった。なんの変哲もない、ただの僕の顔が。
鏡を壁から外し、机の上に伏せて置いた。もう、こんな変なもの、見たくない。いや、見ない。そう決めた。明日になったら、燃えるゴミに出してやろう。僕はそう決意し、ベッドに潜り込んだ。
しかし、なぜか、胸の奥が、温かかった。まるで、誰かに優しく抱きしめられたかのように。その温かさが、なんだか不思議で、僕は眠りにつくまで、その温かさの正体を探し続けた。まさか、あの幻覚のせいじゃないよな…?
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