ぼったくり

中尾よる

上 客

 プチ、と親指の腹に押されたポリエチレンが小さな音を立ててれる。帰りがけ、文化祭の準備に使った残りのプチプチが目に止まり、なんとなく持ってきてしまったのだ。集合体恐怖症ならば悲鳴を上げるのではとも思える、大粒のいくらほどの大きさの気泡が隙間なく並ぶポリエチレンは、正式名称を気泡緩衝材と言うらしい。その気泡緩衝材を手慰みに弄りながら駅前の通りを歩いていると、ふと、小さな店が目についた。

 はて、こんなところに店などあっただろうか。

 いかにもこの通りをよく知っているような素振りで首を傾げてみる。実際には年に一度も通らない駅周りのことなど把握しているわけもなく、ただなんとなく胸に過ぎった違和感をそんな風に言ってみただけだった。

 その店は、潰れかけの本屋と繁盛している定食屋のちょうど間に挟まれるようにして、狭苦しそうに建っていた。肩身が狭そうに置かれた下駄ほどの大きさの木の板に、『居酒屋』と電車の中で書いたのかと思えるような歪んだ文字で書かれている。引き戸の硝子から僅かな明かりが漏れていることからして、こう見えてちゃんと営業しているのかもしれない。

 気泡緩衝材を潰し終わって手持ち無沙汰になった私は、湧き出てきた好奇心をも気泡のように潰す理由は思いつかず、少しの逡巡の後、店の戸に手をかけた。

「……こんばんはぁ」

 店内は外装から予想していた通り狭い。八畳あるかないかの店内に、古い木製のテーブルが一つと同じく古びた丸椅子が二つ置かれている。部屋の隅に追いやられた分厚いテレビは、もう使えないのか近くにリモコンも見当たらない。

「あのー」

 店員はいないのだろうか、人影はなく反応もない。学校帰りの制服姿ではどうせ追い出されるかもしれないし、ここで引き上げるのが無難だろうか。下手に親に連絡されでもしたら面倒だ。

 時計を探して店内を見回すが、見当たらないので鞄からスマホを取り出す。電源をつけると十数件の着信履歴と未読メッセージの表示が目に飛び込み、私は深いため息をついた。メッセージを確認することなく、時計だけ確認して電源を落とす。時間は八時過ぎだった。いつもなら五時には帰宅しているので、母が心配するのも無理はない。だが、今日は連絡する気になれなかった。

「こんばんはぁ」

 最後にもう一度だけ、と声を張り上げる。静寂の後、微かな物音が空気を裂き、店の奥からのそのそと人影が現れた。その店員の風貌に、思わず怯む。

「……ご注文は」

 店員は、何週間も洗っていなそうな消炭色のパーカーを羽織り、フードを鼻先が隠れるほど深く被っていた。オーバーサイズだからか袖が余っているが、これは萌え袖とは呼べない。むしろ失礼は承知で言えば乞食と表現した方が正しいだろう。

 慌てて店内を見回すと、壁にかかった板にメニューが書かれているのを見つけた。とりあえずその中から聞き馴染みがあるものを選ぶ。

「えと、日本酒と冷や奴で」

 幸いなことにフードのせいでこちらの服装はわからなかったらしく、酒の注文に特に何も言うことなく店員は店の奥に下がった。声は若いのに、雰囲気はまるで老人だ。やや猫背な姿勢がまた……と考えたところで、自分も相当な猫背だということを思い出し背筋を伸ばす。とりあえず丸椅子に座りテーブルに頬杖をつくと、ふと壁にかかった絵が目に入った。

 黄色い下地の中央に、ぐるりと弧を描く鼠色の矢印が二つ。それ以外は何も描かれていない。どこかで見たような、と記憶を探り、ウノのリバースだと気がついた。三人以上で遊んでいる場合に、順番が逆回りになるカード。さして好きなカードでもないので使うことは少ないが、二人で遊ぶ時にスキップとして使えるのは便利だった。

 よく言えばシンプル、悪く言えば特になんの変哲もないその絵に私はすぐに興味を失い再び店内に視線を巡らせる。別段面白いものは置かれていない。この古びた店こそが面白いものだと言えばそれまでだが、それもまじまじと観察するほどではない。私はもう一度ため息をつき、頬杖をついていた手を変えた。

 母とは、別に喧嘩をしたわけではない。ついでに言うなら、反抗期なわけでもない。多くの大人は私に反抗期が来ないことを喜び、ご両親の育て方がよかったんだね、だなんて褒めるが、私はそう思ったことがない。反抗期というのは大人になるための一種の儀式なのではないだろうか。今まで従順に従っていた両親の言葉に疑問を持ち、反抗という手段で両親の一部である自分を切り離し、一個人となる。崖から突き落とす親がいないのなら、自分で飛び込むべきなのだ。そうしなければ子供は永遠に親の一部であり、言うなれば臍の緒を切っていない赤子に近しい状態で一生を送ることになってしまう。だから、私は自ら反抗期になることにしたのだ。高校三年生、まだ反抗期という言葉がぎりぎり似合う年齢の内にやっておかなければと。

「……どうぞ」

 顔を上げると、さっきの店員がお盆にワイングラスと冷や奴を乗せて横に来ていた。日本酒を頼んだのにワイングラス、と心の中でツッコミながら軽く頭を下げる。

「ありがとうございます」

 そそくさと去る店員のことは気にせず、ワイングラスを手に取ってみる。匂いは、やはり日本酒だ。飲んだことがなくてもそれくらいはわかる。居酒屋では日本酒をワイングラスで出すものなのだろうか。一見すれば、まるで母がよく飲む白ワインにも見える。

 冷や奴には何もかかっていなかった。生姜も、ネギも、茗荷も添えられていないただの冷えたお豆腐。テーブルの端に置いてある卓上調味料をかけて食べろということだろうか。それが『粋』というやつなのだろうか。

 首を捻りながら塩らしきものが入っているものを手に取りお豆腐に振りかける。私はメジャーな醤油よりも塩をかけて食べる方が好きだ。大豆の甘さが際立って、ざらりとした感触が舌の上で柔く崩れる。

 冷や奴を口に放り込み、飲み込む前に日本酒に口をつけてみる。甘い。大豆の淡い甘さとは違い、重厚な甘みが僅かな辛みと混じり合って口腔内を滑り抜ける。常温なはずなのに熱く感じた。もう一口お豆腐を食べる。数回噛んでお豆腐が崩れたらワイングラスを傾ける。飲み方が正しいかはわからないが、私はこの飲み方が気に入った。塩のかかったお豆腐に、ワイングラスの中で揺れる日本酒。スパイスは少しの背徳感と夜の匂いだ。母に連絡していない罪悪感はスパイスになり得ないので、今は店の隅に蹴飛ばしておく。

 日本酒がなくなってしまうと途端に胸の中に空虚感を覚え、私は僅かに残った冷や奴を行儀悪くお箸でつついた。程よく酔ってぼやけた脳に、単純化された思考だけが揺蕩う。帰らなきゃ、だとか帰りたくない、だとかそんな正反対の言葉が頭の中を彷徨うろついている。

 母のいる家は優しい檻だ。鍵もかかっていないし、扉は開け放たれている。しかし、その檻の中は常に適度な温度に保たれ、暖かいご飯の匂いで満ちているのだ。柔らかいクッションにラベンダーの香り。自主的に、私はそこから出たくないと思う。そこにいれば安心できて、暖かい愛情の中に抱かれることに私はなんの違和感も覚えない。

 でもその檻から一歩外に出た刹那、先ほどまで隠れていた疑問が姿を現す。このままではいけないのでは? これは、ただ依存という名の鎖なのでは? 母の暖かさに包まれている私は、どんどん弱くなっていくのではないだろうか。自立できない、否、自立しているという錯覚だけを残し、私は背後にいる母に寄りかかっている。一人では立てない、ちっぽけな子供。

 箸の先端で崩れた冷や奴を掻き集める。口に運ぼうとすると、箸から溢れテーブルの上にべちゃっと落ちた。テーブルの上に力なく伸べるお豆腐にげんなりし、店員を呼ぼうと顔を上げるとちょうどカウンターからこちらを見ていた店員と目が合う。いや、深く被ったフードのせいで目が合ったかは確かではないが、そんな気がしたのだ。

「お会計、ですか」

 布巾をもらおうと腰を上げた私に、店員がそう言う。そういうつもりではなかったのだが、そろそろ店を出るのもいい気がした。お豆腐のことは店員に処理してもらうことにして、鞄からお財布を取り出す。

「いくらですか?」

 そう問うと、店員は何を思ってか数秒黙り込み、先ほどとは打って変わってはっきりした声で答えた。

「一万円です」

 その声に気圧され、お財布の中に入っていた千円札を数えて手渡す。どうにか足りたことに安堵し、さっさと店から出たところで、ぼったくられたことに気がついた。日本酒一杯と冷や奴一つで一万円もするわけがない。接客が素晴らしいのならまだしも、あの愛想のなさで一万円を取るとは。だが引き返して抗議するのも面倒くさく、一万円は諦めることにして踵を返した。

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