第2話 『 誤算 』の『 矛先 』

あの雨の日から、半年が過ぎた。


俺の時間は、あの日から一秒たりとも進んではいない。

心のカレンダーは、美結みゆが死んだあの日のまま。

ただ、復讐という名の毒だけが、俺の全身をゆっくりと蝕み、そして生かしていた。


興信所を使い、大学生の居場所を突き止めるのに、さほど時間はかからなかった。

名前は浅野結希あさのゆうきと言うらしい。


都内の三流私立大学に通う、平凡な大学生。


SNSのアカウントも見つけ出したが、ほとんど更新はされていない。

その空虚な日常を、俺は粘着質なクモのように監視し続けた。

友人と呼べる人間はほとんどおらず、サークルにも所属していない。

講義と、家と、近所の図書館を往復するだけの、色のない毎日。


完璧だ。

この孤独なガキが、いつか誰かと恋に落ち、幸福の絶頂に立った時、それを叩き落とす。

その瞬間を想像するだけで、冷え切った血がわずかに熱を持った。


   * * *


そして今日、俺は初めて、浅野結希あさのゆうきという男の前に立つ。


区内の図書館。

書架の陰からそっと覗き込むと、目的の人物はすぐに見つかった。

猫背気味に本を読むその後ろ姿は、写真で見た印象よりもさらに小さく、頼りなく見える。


 (こいつが……こいつが、美結みゆを……)


憎悪がこみ上げる。

だが、同時に奇妙な感情が胸をよぎった。

俺が想像していたのは、もっと傲慢で、冷酷な人間の姿だった。

しかし、目の前にいるのは、ただの冴えないガキだ。

伸びっぱなしの髪、よれたTシャツ、度の強そうな眼鏡。

すべてが、俺の描いていた復讐のシナリオを微妙に狂わせる。


俺は高鳴る鼓動を抑え、彼の近くの閲覧席に静かに腰を下ろした。


しばらくすると、浅野結希あさのゆうきは数冊の本を抱えて席を立った。

その時だ。

バランスを崩したのか、彼の手から一冊の本が滑り落ち、床に鈍い音を立てた。

本は滑るようにして、俺の足元まで転がってくる。


 「あ……っ、す、すみません……!」


慌てて拾おうとする彼より先に、俺はその本を拾い上げた。

そして、表紙のタイトルを見ると、穏やかな笑みを浮かべて彼に手渡した。


 「大丈夫か?」


そう言うと、浅野結希あさのゆうきは眼鏡の奥の目を数回またたかせ、驚いたように俺の顔を見上げた。


 「は、はい……」


彼はそう言うと、気まずそうに視線を足元に落とした。

会話が、続かない。

その姿を見ているうちに、俺の胸の奥で、憎悪とは別の黒い感情が渦を巻き始めた。


苛立ちだ。


こいつはなんだ。

この自信のなさ、このコミュ障っぷり。

こんな男が、誰かを愛し、結婚し、子供を授かる?

馬鹿を言え。

このままでは、俺の復讐が成立しない。

こいつは、俺が破滅させるべき幸福を、そもそも掴むことすらできないじゃないか。

俺の復讐は、こいつが最高の幸福を手にして、初めて完成するのだ。


浅野結希あさのゆうき


 「それじゃ、失礼します……」


と会釈し、逃げるようにその場を去ろうとする。

その弱々しい背中を見つめながら、俺の中で、ある歪んだ決意が固まった。


 (このままじゃダメだ。

  俺の復讐を果たすためには……

  まず、こいつを魅力的な男に磨き上げるしかない。)


皮肉なことだ。

愛する女を奪った憎い相手を、この俺が、誰よりも魅力的な男にプロデュースする。

そして、すべてを与えた後、すべてを奪うのだ。


俺は去っていく浅野結希あさのゆうきの背中に、静かに声をかけた。


 「なあ、君。

  少し、話をしないか」


振り返った彼の驚いた顔を、俺は作り物の笑顔で見つめ返した。

皮肉なことに、俺の復讐は、ターゲットをプロデュースすることから始まった。

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