第2話
空調の低いうなりに混じって、人の声が流れてきた。P2ラボの上層。俺がいるのは、メンテナンス区画の隅だ。本来、鳥のサイズでなければ入り込めないような場所。俺は天井の通気ダクトに身を潜め、じっと耳を澄ませていた。
ここ数日、元宮の様子がおかしかった。やたらと俺をこのP2ラボから遠ざけようとしていたのだ。
P2ラボは、極秘の相談研究がなされている場所だ。元宮は何も語らない。だから俺には何を隠しているのか分からない。が、好奇心をくすぐられて盗み聞きに来たというわけだ。
「……西野公園の個体、以前、補助研究員の手からパンを直接受け取っていたという報告があります」「足に傷のある個体か。人馴れしていて捕獲も容易だろう。第二弾実験体としては悪くない」「例の薬剤も、そいつで……」
聞こえてきた言葉に、すっと冷たいものに包まれたように感じた。
ユラ……!
西野公園は、俺がかつていた生活圏。そこを拠点としているカラスは、それほど多くない。その中で「足に傷があり、人馴れしているカラス」といえば、あいつだけだ。
ユラ。俺の旧友。
「よし、生体嘘探知機実験はその個体でいこう」
密室のP2ラボでの密談は続いていた。だが、その先は、もうほとんど聞いていなかった。
生体嘘探知機だって? やつらは一体、ユラに何をするつもりだ? 生体嘘探知機なら、すでに俺がいる。研究所の“ミス”によって生まれた俺が。
……ミス。
そうか。研究所の人間は第二の俺を作りたいのか。俺だけでは、足りなかったというのか。
これ以上、聞き耳を立てている時間はなかった。俺は研究所を飛び出した。ユラに、危ないと知らせなければ。
風が強まる。上昇気流を羽で感じる。
羽ばたきのリズムを崩さず、一直線に西野公園を目指す。
俺は研究所に囚われているわけじゃない。行動圏内なら自由に飛べる。行動圏内なら……。
風の中に、かすかに混じる電子ノイズ。脳の奥に、チリ、と電気が走る。
「警告。制限エリア逸脱中」
耳の奥で、無機質な声が鳴る。
「自己制御回路を強制遮断します」
容赦なく告げるその音。届かないのか? ユラのいる西野公園は、もう目の前だというのに。そこは、行動圏内に入っていないというのか。
視界が一瞬、白く爆ぜた。
俺の行動を制限するショック信号が脳を襲う。
羽ばたきの感覚が抜け、重力が現実の重さを取り戻す。ゆっくりと、体が下降し始める。
落ちていく最中、西野公園の方向に見慣れた黒い姿が見えた。見えた気がした。
目を開けると、白い壁が視界に入りこんできた。かすかな電子音。静まり返った部屋。そこに、聞き慣れた足音が響く。
「行動圏を超えるなと、あれほど言い聞かせておいたのに。どういうつもりだ」
俺が目覚めたことに気づいた元宮が、問いかけてくる。
どうやら、墜落した俺を位置情報から特定して、研究室に運び戻したらしい。
檻の中に寝かされていた俺は立ち上がり、羽をばたつかせた。
墜落といっても、ゆっくりと安全な場所を選んで落ちる余裕はあったため、特にこれといった傷はない。
「言い聞かせるだけで、俺が言うことを聞くと思う?」
俺は横柄な態度で応じた。
元宮がため息をつく。
「お前はもう、檻の中でおとなしくしてろ。今まで通り自由にはできないと思っておけ」
「はぁ? お前、何言って——」ばたばたと羽をばたつかせる。「俺は鳥だぞ。鳥は自由に飛ぶもんだ。閉じ込めたりしちゃ、体に悪いだろ!」
声を荒げる俺を見て、滅多に笑わない元宮が、ふっと笑った。
「お前は生体嘘探知機。実験体CR#1。要するに、お前はもう、鳥ではない」
にべもなく言い放たれたその言葉が、容赦なく俺に突き刺さった。
元宮が部屋を出ていく。
ドアの閉まる音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
冷たい空気だけが部屋の中を巡回していた。
俺はもう、鳥ではない。
自分の黒い羽を見下ろす。カラスの、残像。
頭の中では、常に異質な電子音が鳴っている。
俺は“変えられた”。
もう鳥ではないのだとしたら、それは誰のせいだ? お前だろ、元宮。
白衣の研究員が出て行ったドアを、俺はにらみつけた。
そうだ。俺は、人間の道具になり下がった。
だから、良かったのかもしれない。ユラに会わずに済んで。かつての旧友に、この身をさらさずに済んで。
俺はただ、ここで待っていればいい。この研究所にユラが連れてこられる日を。
そしてユラは第二の生体嘘探知機、すなわち人間の道具になる。
そうすれば、俺はきっとユラに会える。同じ立場で。最高じゃないか。
俺は、一羽ではなくなるんだ。
その日は、食事の時間が妙に遅かった。
狭い檻の中で時間を持て余す俺にとって、飯が今の生きがいだというのに。
何をしてる、元宮。
電気の消えた元宮の研究室に、外からの光が届かなくなった頃。ようやく白衣の研究員が戻ってきた。
パチリ、と部屋に明かりが灯る。
「遅いぞ、いったい——」「お前の存在を外部に流出させた奴がいる」
元宮が手で俺の話をさえぎり、いきなり切り出した。
「あーはいはい、よかったね。で、飯は?」
「密告者を特定しろ」
無機質な声が、事務的に告げる。
「どうしよっかなー」
いつものように、おちょくってやる。俺にできる抵抗は、それくらいのものだから。
「今日はいつまでたっても飯をよこさないから、命令を聞く気分じゃねぇな」
黙ったままの元宮の頭に視線を向ける。
「ってお前、白髪増えたんじゃないの? 俺の情報がバレたのが、そんなに気がかり? 俺はそんなに、バレちゃいけない存在なのかな?ダメだなー。バレたら困るとことは、最初からやるべきじゃないだろ?」
元宮がぴくりと反応したが、すぐに表情を消し去る。
「お前は黙ってろ。密——」「黙らないね」
俺は大声をあげて、元宮の残りの言葉をかき消した。
「俺に言葉を与えたのは、どこの誰かな?」
分かってるくせに。俺を鳥じゃなくしたのは、どこのどいつなんだよ。
元宮は、俺の言葉なんか聞こえていないフリをすることに決めたようだ。淡々と続ける。
「密告の疑いがある人物は、ある程度こちらで絞った。特に稲生が怪しい。この前のこともあるからな。明日、稲生は外部に出かける用事がある。その時、あとをつけろ」
「……ってことは、俺は檻から出られるってことか」
それは、良い。
「ただし、行動圏内のみだ。稲生の位置情報もこちらで把握している。お前が真面目に奴のあとをつけていないと分かったら、またこの前のようになるぞ。分かっているな?」
「はいはい」
まあ、いいか。外に出られるなら命令を聞いてやっても。
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